「せ……先生……っ !? 」 春の花と緑の中に亡き師の姿を認めた途端、瞬は その瞳に涙を盛り上がらせた。 その涙を見て、氷河は自分のしたことを、早くも後悔することになってしまったのである。 これは、瞬に死んだ人を思い起こさせる残酷な所業だったのだと。 だいいち、普通の人間は、死んだ人間が化けて出てくるのは――まさに化けて出てくるのは――この世に未練があるからと考えるものだろう。 瞬も そうだとは限らないが、そうである可能性を考えなかった自分の浅はかさを、氷河は深く後悔した。 だから――瞬の悲しみや不安を煽らないために、氷河は つい言ってしまっていたのである。 「違う……違うんだ。俺はアルビオレじゃない。俺――私は、君の師ケフェウス座アルビオレの弟で、アルビレオ。アルビオレではなく、アルビレオ――アルビレオだ」 「せ……先生の弟さん……?」 氷河の即席の出まかせを聞いた瞬が驚き、瞳を見開く。 瞬に余計なことを考える時間を持たせないために、氷河は 息をもつかせぬ勢いで まくしたてた。 「そうだ。私は聖闘士ではないのだが、聖域の環境改善を任されている民生委員のようなもので、聖域に潜在する問題点の掘り起こしや改善を生業としている。それで 今、聖域の各聖闘士たちを個別に訪問して、意識調査をしているんだ」 「聖域の――民生委員?」 そんなものが存在することは、瞬には初耳だったのだろう。 瞬は、アルビレオの自己紹介を聞いて、首をかしげた。 瞬の疑念は至極当然。 聖域に そんな仕事をする者がいるなど、自身を民生委員と称した氷河にも初耳のことだった。 が、一度 口にしてしまったら、もう あとには引けない。 氷河は さっさと事務的に民生委員の職務に取りかかった(取りかかる振りをした)。 瞬に、疑念を持たせたら、それで万事休すなのだ。 「で、今回の意識調査の対象分野は、聖闘士の恋愛観に関してなのだが」 「は?」 「恋愛についての意識調査だ。今 恋愛をしているか、聖域という環境や聖闘士という職務は 恋の妨げになっていないか、恋をする時間的精神的余裕の有無、恋に対して積極的な意欲があるか ないか、恋の対象範囲はどんなものか」 「こ……恋の対象範囲?」 「そう。圧倒的に女性が少なく 大多数の住人が男性である聖域では、それは大きな問題なのだ。たとえば――君が同性を好きになったらどうする? あるいは、同性から好意を寄せられたら。君は その恋を成就させようとするのか、諦めようとするのか」 「僕が、ど……同性を好きになったら……?」 偽の調査員の迫力に引き込まれ、瞬が真面目に対応してくる可能性40パーセント、突然 わけのわからない意識調査を始めた男に不審の目を向けてくる可能性60パーセント――と踏んでいた氷河は、そのどちらでもない反応を示した瞬に、一瞬 心臓の鼓動が止まってしまったのである。 偽の民生委員の質問を復唱し、瞬は 僅かに その頬を上気させたのだ。 「しゅ……瞬…… !? 」 初対面の人間に、『瞬』と呼び捨てにされる不自然に戸惑った様子はなく――おそらく、それどころではなかったのだろう――瞬が 自分の一瞬の反応を取り繕うような素振りを見せる。 偽の民生委員の前で、深呼吸を一つ。 そして、瞬は、 「僕は恋をしたことがないので、そういうことはよくわかりません」 と真顔で答えてきた。 瞬はどうやら、偽の民生委員の意識調査に真面目に対応してくれるらしい。 氷河は、たった今 瞬が見せた一瞬の表情が気になって、その事実に安堵するどころではなかったが。 「もし好きになったらという、仮定の答えでいいんだ」 ここで『はい、そうですか』と、質問を取り下げるわけにはいかない。 もちろん、氷河は食い下がった。 今は冷静に戻ってしまったらしい瞬が生真面目に、 「僕はアテナの聖闘士ですから、そういうことは この地上が平和になってから考えるべきことだと思っています。好意を抱かれた場合も同じ」 と答えてくる。 瞬は何を言っているのだと、氷河は思ったのである。 そんな時の到来を待っていたら、白鳥座の聖闘士の恋は いつまで経っても実らないではないか。 氷河は、つい叫んでしまっていた。 「この地上に平和なんて来ない!」 と 大声で――ほとんど怒声といっていい声で。 「えっ」 それは、聖闘士ではないにしても、地上の平和を守るために存在する聖域という場所に関わっている人間が言っていい言葉ではなかっただろう。 驚き目を見はった瞬の様子に慌てて、氷河は自身の怒声をごまかした。 「と思って、答えてくれ」 「で……でも……」 「デモもストライキもない。だいたい、人間というものは 戦争中にだって恋をする生き物だ。仕事と恋愛の両立、受験勉強と恋愛の両立が問題になることからして、それは紛う方なき現実。恋は、他のあらゆる活動と並行してできることなんだ。心を殺して、人は生きられない。友情だってそうだろう。地上の平和を守る戦いを続けているから、友と友情を育む時間がないということはない!」 「は……はい。それは……そうだと思います」 氷河の剣幕に押され――むしろ 脅しに屈したように、瞬が民生委員の言に頷く。 そうしてから 瞬は僅かに首をかしげ、民生委員からの質問の答えを 自分の中に探しに出掛け、やがて目的のものを手に入れたようだった。 ゆっくりと、瞬が その唇を開く。 「僕は――」 「おまえは?」 「多分、自然に任せると思います。それが同性でも異性でも、どうしても その人でなければだめだったら、どうしようもありませんよね。先生がおっしゃったように、人は 心を殺して生きることはできない――」 「瞬……」 『先生』と――ケフェウス座アルビオレの弟という触れ込みの偽の民生委員を、瞬は『先生』と呼んだ。 アルビオレと瓜二つの姿に惑わされてのことなのだろうが、氷河は一刹那、瞬に『先生』と呼ばれていた幸運な男への嫉妬に かられてしまったのである。 ともあれ、瞬は最初から恋を拒絶する気はないようだった。 となれば、次なる問題は、瞬の心を白鳥座の聖闘士に向けるには どうしたらいいのかということになる。 それは、なかなかの難問だった。 アルビオレの幽霊なら、世界のすべてが見えている顔をして、『氷河くんが おまえに好意を抱いている。その気持ちに応えてやりなさい』と言うこともできるだろうが、ここにいるのは、瞬の師の幽霊ではなく、瞬の師の生きている弟ということになっているのだ。 瞬の涙に負けて、そういうことになってしまった。 生きている人間――しかも、瞬の師でもなければ何でもない赤の他人が――そんなことを言い出すのは、どう考えても不自然である。 話をどう持っていくべきか――自分で自分の首を絞めてしまった氷河は、当初の計画の立て直しを図るべく、考えを巡らせ始めた。 氷河が その答えに辿り着く前に――瞬が ふいに 優しく微笑しながら、偽の民生委員に思いがけない言葉をかけてきたのである。 「先生は恋をしているの?」 「なに……?」 「そうなんでしょう? だから、あんなに向きになって……。先生が恋している方は どんな方ですか?」 瞬の師アルビオレは おそらく、“そういうことは この地上が平和になってから考えるべきことだと思って”いる男だったのだろう。 当然 瞬は、師の恋の話など聞いたこともなかったに違いない。 偽者とはいえ 師の弟の恋物語を聞くことは、瞬にとって、個人的な幸福より地上の平和を守ることを選び、そのために死んでいった師の幸福の幻を見るような行為――師の死を悼む自らの心を慰めることでもあったのかもしれない。 そう思うと、瞬の問い掛けを無下に退けることはできず――氷河は 嘘に嘘を重ねることになってしまったのである。 「それは……優しくて、強くて、清らかで――」 「優しくて、強くて――?」 「いつも自分のことより人のことばかり考えて、仲間のことを気に掛けて、自分の幸福なんて考えていないようなところがある人だ。そして、周囲の人間は皆、そんな しゅ……そんな あの人に甘えてしまう。だから俺は――俺だけはいつも、誰よりも何よりも その人の幸福を考えていようと決めたんだ」 それは、瞬の師アルビオレなら そういう恋をしただろうという推察が作った恋物語ではなく、氷河の恋そのものだった。 氷河は、自分の恋が どんなものなのかということは よく知っていたが、自分以外の人間がどういう恋をするものなのかを知らず、考えたこともなかったから。 偽のアルビオレの言葉を聞いて、瞬が幸せそうに微笑む。 そして、瞬は、うっとりしたような眼差しで、 「素敵。僕も恋をしたくなりました」 と呟くように言った。 「そうか! そうか、ぜひ!」 瞬が恋をしたい気持ちになってくれた。 それは、氷河には大きな収穫で、大きな喜び、大いなる希望でもあった。 気負い込んで 恋を推奨する氷河に向かって、瞬が、今度は はっきりした笑顔を作ってくる。 「はい。どうせ恋をするなら、僕、先生みたいな人がいいな」 「へ……?」 瞬が恋をしたい気持ちになってくれた。 それは、氷河には大きな収穫で、大きな喜び、大いなる希望でもあったが、瞬のその発言は、アルビオレならぬ氷河には 複雑な問題をはらんだ、まさに問題発言だった。 |