「サクリファイス?」 瞬が その儀式のことを知ったのは、彼がアンドロメダ島に送り込まれてから2年が経った頃だった。 体力、運動能力、戦闘技術を磨くための修行では 修行仲間たちに後れをとることはなくなったが、実戦の訓練となると誰にも勝つことができない自分に不安を覚えるようになっていた頃。 教えてくれたのは、瞬より1年ほどアンドロメダ島での暮らしが長い、姉弟子のジュネだった。 瞬が修行の つらさに泣き出すと、『そんな泣き虫が聖闘士になれるわけないんだから、さっさと日本に帰っちまいな!』と怒鳴りつけるくせに、瞬が本当に自分が聖闘士になることは無理なのかもしれないと考え始めると、『日本に聖衣を持って帰って、兄さんと会うんだろ!』と励ましてくれる人。 瞬は、彼女の優しさと厳しさに、いつも感謝していた。 彼女がいなかったなら、アンドロメダ島に来て数ヶ月ともたずに、自分は兄との約束を果たせない者になってしまっていただろうと思うほどに。 修行仲間と実際に戦う実技体練になると、四肢と心が委縮して、どうしても勝つことができない。 仲間たちと戦うことなく聖闘士の資格を得ることはできないのかと問うた瞬に、彼女は、アンドロメダの聖衣を手に入れるために瞬が乗り超えなければならない本当の試練がどのようなものなのかを 教えてくれたのだった。 「おまえが この島で毎日 重ねている修行は、実際のところは、アンドロメダの聖衣を得るための試練への挑戦権を得るためのものにすぎないんだ。この島で いちばん強い奴になれたって、おまえは聖闘士になれるわけじゃない――アンドロメダの聖衣をもらえるわけじゃない。それを決めるのは、アンドロメダの聖衣だからね。その試練をサクリファイスというんだ」 「サクリファイス? それはどういうものなんですか」 「この島の南の沖合に大きな岩があるだろ。アンドロメダ聖衣への挑戦権を得た者は、試練の日、潮が満ち始める頃に、あの岩場に鎖でつながれるんだ。自分一人の力で鎖の縛めから脱出できないと、満ちてくる潮のせいで 挑戦者は溺れ死ぬ。言ってみれば、それだけのことなんだけどね」 「それだけ……?」 “それだけのこと”が困難なことであるのは はわかるが、しかし、それはジュネの言う通り、“それだけのこと”である。 この島に来てから2年間の修行で、瞬は、小さな岩くらいなら、3回に1度は砕くことができるようになっていた。 なぜ 砕けるのか、なぜ 砕ける時と砕けない時があるのかは 自分でも よくわかっていなかったのだが、それは普通の人間にはできないこと。 この2年間の修行で、自分が何か特別な力を身につけつつあることは、瞬にも自覚できていた。 ジュネに聞いた限りでは、サクリファイスは、砕くべき岩が鎖に変わっただけの試練である。 金属は花崗岩より硬いだろうが、鎖は岩より細い。 その試練に打ち克つことは、今の自分でも決して不可能なことではない――ような気がしたのである、瞬は。 「そう。それだけ。だが、サクリファイスへの挑戦者を縛りつける鎖は、アンドロメダ聖衣のチェーン、そんじょそこいらの鎖とは違って、物理的な力では引き千切れない鎖なんだ。チェーンの縛めから脱出しようと思ったら、おまえは おまえの小宇宙で チェーンを自分に従わせなきゃならないんだよ。チェーンが おまえになら従ってもいいと認めた時、おまえは初めて、アンドロメダの聖衣を その身にまとう資格を得るんだ」 「そのサクリファイスに挑戦して、アンドロメダ聖衣のチェーンを従えることができたら、みんなと戦わなくても、僕はアンドロメダの聖衣をもらえるの?」 ジュネは、瞬に そう問われると、一度 はっきりと頷き、そして、笑った。 非力な子供の大きすぎる夢を笑う大人のように。 「サクリファイスの試練に耐えて生き延びることができたらね。それは、アンドロメダの聖衣が おまえを自分をまとうにふさわしい者として認めたっていうことだから」 「そうすれば、僕は日本に帰れるんだ……誰も傷付けることなく……」 瞬の呟きを聞いたジュネが、微かに眉を曇らせる。 彼女は すぐに大人の笑いを消し去って、未熟な後輩の無茶を たしなめる姉弟子の顔を、瞬に向けてきた。 「そう簡単にはいかないよ。言ったろ。アンドロメダ聖衣への挑戦者を縛るのは、アンドロメダ聖衣のチェーンだって。サクリファイスに挑戦した者は これまでに何人もいるけど、誰も その試練に耐えきった者はいない。もう何百年も アンドロメダ座の聖闘士は現れていないんだ」 「何百年も……」 何百年もの間、誰にも乗り越えることのできなかったサクリファイス。 その試練を乗り越えることは、至難の業なのだろう。 体力、運動能力、精神力、勇気、小宇宙――ありとあらゆる意味で 相当の力が求められることなのだろう。 特に、強大な小宇宙の力は不可欠であるに違いない。 瞬は、小宇宙がどういうものなのかということは、師に教えられていたが、自分の小宇宙を実感したことは未だに一度もなかった。 もしかしたら これがそうなのかもしれないという“感じ”を感じたことが 幾度かあるきりで。 あらゆる力が求められるサクリファイス。 それでも、その試練に打ち克つことは、この島で共に修行をしている仲間たちを傷付け打ち倒すことに比べれば、はるかに容易なことであるように、瞬には思えたのである。 |