「僕には無理なのかな……」
岩場に鎖で縛りつけられ、その鎖の縛めを解く。
サクリファイスに挑戦する者が すべきことは、要するに、水の中で鎖から脱出することだけ。
それさえできれば、瞬は この島に来た目的を果たすことができるのである。
速く走ること、高く跳ぶこと、長く泳ぐこと、深く潜ること――この島にやってきたばかりの頃より、瞬の力は 段違いに増していた。
聖闘士になるための修行を積んでいない大人くらいなら、瞬は もう少しも恐くはなかった。
傷付け倒すようなことはしないし、できないが、そもそも普通の大人は 自分を捕まえることさえできないだろうと、瞬は確信していた。
自分は“普通の人間”を凌駕している――“普通の人間”には持ち得ない特別な力を備えている。
その思いが、瞬の胸の中に ある考えを運んできたのである。
アンドロメダの聖衣を得るために乗り越えなければならないサクリファイス。
その試練を普通のチェーンで試してみようという考えを。


あくまでも練習。
あくまでも腕試し。疑似訓練。
アンドロメダ聖衣のチェーンを持ち出すことは許されていないのだから、使用する鎖は ごく普通のもの。
潮が満ち始めた時、自身の足と腰を犠牲の岩に縛りつけ、両手は自由が利くようにしておく。
それなら、万一の時には自分の手で鎖を外すことができ、命を落とすことはないだろう。
瞬は そう考え、ジュネや師には内緒で、その考えを実行に移してみたのである。
そうして。
疑似サクリファイスに挑んで5分もしないうちに、瞬は己れの軽率を後悔することになったのだった。

日本にいた頃の自分からは想像もできなかったほどに力を増して、瞬はうぬぼれていた。
それは、自身の小宇宙を実感したこともない者が挑んでいい試練ではなかったのだ。
瞬が“練習”に用いたのは ごく普通の鎖だったというのに――満ちてくる潮の中で それを外すことは、瞬の想像以上に難しいことだったのである。
そもそも サクリファイスの岩場の周囲は、アンドロメダ島を囲む他の海域とは潮の流れや勢いが まるで違っていた。
それこそ生贄に捧げられたアンドロメダ姫に襲いかかる巨大な海獣のように、岩場の周囲の海は獰猛だった。
あっというまに満ちてきた潮の水圧と水流が、瞬の身体の自由を奪う。
瞬は、鎖に縛られていない両手を 自分の思う通りに動かすことさえできなかった。
水位は徐々に上がるのではなく、一瞬で50センチ近く上昇し、瞬は息ができなくなった。
(苦しい……)
自分が苦しいと感じているのは、息ができないからなのか、激しい水流や 鉄の塊りを押しつけられるような水圧に身体を痛めつけられているからなのか――そんなことさえ(自分自身のことだというのに)瞬には判断できなかった。

その試練に挑戦できるだけの力が まだ備わっていないと わかっているからこそ、師は それを瞬に――他の聖闘士志願者たちにも――許さずにいたのだ。
そんな、考えるまでもないことに考え及ばず、焦慮にかられて愚かなことをしてしまった。
師が許すまで、日々の修行を着実に堅実に続けるべきだった。
成果を求めるあまり、努力の重要性を見失った。
自分の真の力を見極められないほど未熟なのに――だからこそ?――己れの力を過信した――。
できることなら、10分前の自分を『馬鹿なことはするな』と言って諌止したい。
そう瞬は思ったのである。
もちろん、そんなことはできるはずもなかったのだが。

それでも 瞬は、懸命に鎖をはずそうとして もがき、足掻いたのだが、すべては徒労だった。
アンドロメダ島の海、犠牲の岩は、愚かな人間の思い上がりを許す気はないらしい。
それどころか、いよいよ激しさを増す潮の流れは、瞬を犠牲の岩に強く押しつけ、指1本を動かす自由までをも、瞬から奪い去ってしまった。
(だめ……僕は ここで死ぬんだ……。普通の鎖でも無理なのに、アンドロメダ聖衣の鎖から脱出するなんてことができるわけない。僕には最初からアンドロメダ座の聖闘士になる力なんて備わっていなかったんだ……)
成果を焦ることなく、師の教えに従い、地道に修行に励んでいれば、もしかしたら いつか その力は自分のものになっていたかもしれない。
だが、その時はもう 永遠に来ないのだ――。

(兄さん……兄さん、ごめんなさい……!)
既に瞬の全身は海中に没していた。
血を吐く思いで、瞬は兄に詫びたのである。
そして、アンドロメダ座の聖衣を手に入れることと、自分の命、兄との約束を果たすことを諦めた。
諦めて、自らの命の終わる時を迎える覚悟を決めた――その時。
『マーマ……!』
渦巻く海流の中、瞬に 聞こえるはずのない声が聞こえてきたのである。
その声(?)の主が、瞬と同じように、今更 悔いてもどうしようもないことを悔いていることが、瞬にはわかった。






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