(え……?)
『マーマ……駄目だ。もう動けない。せっかくここまで――船のあるところまで来れたのに……!』
それは声だったのか、思念だったのか――。
いずれにしても、その悔いが誰のものなのかは、瞬にはすぐにわかった。
『マーマ』という言葉を口にする人間を、瞬は たった一人しか知らなかったから。
(氷河…… !? )

それは、瞬がアンドロメダ島に送られるまで、城戸邸で共に暮らしていた仲間。
そこに集められた すべての子供等と同じように両親がなく、だが、他の子供等と違って、母に愛された思い出を持ち、その思い出を命の糧にして生きていた、青い瞳と金色の髪を持つ仲間――氷河。
瞬には、彼が苦しんでいるのがわかった。
今の自分と同じように、氷河は生死の境にいる。
そして、自分の力不足を嘆き、自分の行動を悔いている。
瞬と氷河が違うのは、瞬はただ自身の愚行を嘆き悔いるだけだったが、氷河の嘆きと後悔は 徐々に 嘆きでも後悔でもないものに変わっていったこと。

『俺は、マーマのところに行けるんだ……』
氷河の嘆きは、今では ほとんど安らぎと 諦めと、そして歓喜に変わってしまっていた。
(そんなの駄目……!)
氷河のマーマがいるのは死者の国である。
氷河の母が どんなふうに死んでいったのか、瞬は たった1度だけ、氷河に教えてもらったことがあった。

自分は仕方がない。
自分は、城戸邸に集められた子供たちの中で最も非力で、兄や仲間たちに庇ってもらえなければ、いつ挫けてしまっていても おかしくないような弱い子供だった。
だが、氷河は違う。
氷河は、何事にも意欲的とは言い難いところがあったが、力と才能のある子供だった。
瞬がどんなに努力してもできないことを、氷河は容易に やり遂げて――100人の子供たちの中では五指に入る有能で有望な子供だったのだ。
氷河なら、聖闘士になることも たやすいだろう。
瞬は、そう思っていた。
氷河でも駄目なら、他の誰でも駄目だろうと――氷河でも駄目なら、兄でも その目的を果たすことは難しいだろうと。
瞬は、ここで氷河に諦められてしまうわけにはいかなかったのである。

――これは どういう奇跡なのか。
瞬のいる西インド洋と、氷河のいる東シベリア海がつながっていた。
西インド洋にいる瞬の目に、シベリアの海底に沈んでいる氷河の母の墓標である船が見える。
そんなことがあるはずはないのに、瞬の目には 確かにそれが見えていたのである。
海底に沈んでいる半ば以上 朽ちた船と、そのマストに かろうじて右手だけで 掴まっている氷河の姿が。

手を離せば、ほとんど体力が残っていないらしい氷河の身体は、渦巻く海流に揉まれながら 海底から海上に押し上げられるだろう。
急激な水圧の変化は、氷河の身体を ばらばらにしてしまうに違いない。
だが、このまま朽ちた船に しがみついていても、いずれ呼吸ができなくなって、氷河は命を落とすだけである。
それが、瞬にはわかった。

このあり得ない状況は、二人が同時に死にかけているから起きた奇跡なのだろうか。
あるいは、これは、死に直面した者が見る幻影にすぎないのか。
瞬には、この奇跡の真実の意味はわからなかった。
何もわからなかった。
ただ一つ わかることは、自分が氷河を助けなければならないということ。
今 それができるのは、自分しかいないのだということ。
瞬には それだけわかれば十分だった。

(氷河……氷河を助けなきゃ……!)
だが、どうやって。
方法はわからない。
だが、助けなければならないのだ、絶対に。
助けなければならない。
自分の命に代えても、氷河を助けるのだ――。

瞬が そう決意した時だった。
瞬の身体が 燃えるように熱くなり、間違いなく全身が水中にあるというのに自然に呼吸ができるようになったのは。
瞬の身体を縛りつけていた鎖は、まるで蜘蛛の糸のように やわらかく軽いものになり、僅かに身じろいだだけでも切れそうなほど抵抗力が感じられなくなった。

なぜ こんなことが起きるのかと、不思議に思っている余裕は、瞬にはなかった。
苦しくなくなったのは、まだ瞬だけだったのだから。
瞬は 鎖を引き千切って――否、瞬の身体を縛っていた鎖は勝手に砕け散った――氷河の許に急いだのである。
海底に沈んでいる船までの距離は近いのか 遠いのか、その見極めもつかなかったが、ともかく海の底に向かって。
海水は冷たかった。
それは 到底 アンドロメダ島周辺の日中の水温ではない。
ここはシベリアの海なのだと、氷河がいるのだから それは当然のことと、瞬は この奇妙な現実――あるいは、奇跡――を、いつのまにか受け入れてしまっていた。

(助けなきゃ。氷河だけでも――氷河だけは……!)
氷河を助けたい。
氷河を助けられるだけの力を、僕にください。
誰に祈ればいいのかが わからなかった瞬は、自分自身に祈ったのである。
それが、今 瞬に力を与えてくれる唯一の存在だったから。
瞬の力は、瞬の内から生まれ出てきていた。
その力が、水を温かくし、瞬の呼吸を楽にしていた。
既に 水圧も ほとんど感じない。
瞬の内から生まれる力が変えているのは 瞬自身の肉体なのか、瞬の周囲の環境なのか。
氷河を助けたいという瞬の気持ちが強くなればなるほど、その力も強く大きなものになっていった。

(これは……これが小宇宙? 先生の言っていた……?)
瞬の師は、『なぜ その力が生まれるのか、その力を生むものは何であるのか、それは人に教えてもらうのではく、自分自身で気付き、見付け、知らなければならない』と言っていた。
『その力の源は、すべての人間に共通する ただ一つのものだが、その力の現われ方は 人によって異なるから』と。
今 瞬に その力を与えているものは『氷河を助けたい』という 強い思い――強い強い思いだった。

そして、その力が瞬に教えてくれたのである。
その力が、氷河の心、氷河の見た光景、氷河の願い――を瞬に伝えてきた。
氷河が これまでに幾度も、海底深くに沈んでいる彼の母に会うために 冷たい海に潜っていたこと。
氷河は、今日初めて、彼の母の眠る船のマストに触れられるところまで潜ってくることができたのだということ。
『もう少しでマーマに会える』という思いが、氷河に判断を誤らせたこと。
自身の余力を的確に判断し、もう少し早い段階で海上に上がっていれば こんなことにはならなかったのに、『もしかしたら マーマのところにいけるかもしれない』という希望のために、氷河は その機を逸してしまったのだ。
そうして、呼吸が続かなくなり、力も尽き、身体が動かなくなって、進むことも退くこともできなくなってしまった――。

大切な人に会いたいという氷河の願い、諦めきれない氷河の思いが、瞬には痛いほど わかったのである。
だから、瞬は、何としても氷河を助けなければならなかった。
氷河を助けたいという思いが、瞬の力を ますます強く大きいものに育てていく。
その力に助けられて、瞬は ほどなく、ほとんど気を失いかけている氷河の許に辿り着いた。

『息ができる……なんでだ?』
氷河の思惟が、瞬に聞こえてくる。
瞬の小宇宙が変えているのは、瞬の身体だけではないらしい。
その力は氷河にも作用しているようだった。
(氷河……大丈夫?)
『人魚……?』
(……え?)
氷河は そんなものの存在を信じていたのだろうか。
氷河も自分も まだ完全に危地を脱したわけではないというのに――氷河が思い浮かべた その言葉を聞いて(?)、瞬は思わず笑みを零してしまっていた。

朽ちかけた船のマストを掴んでいる氷河の指を1本ずつ外させ、氷河の肩と胸を支える。
鉛のように重く、鉄のように硬くなっているというのに、氷河の身体は、瞬が支えていないと海流に翻弄されるばかりになっていた――氷河の身体には、ほとんど力が残っていないようだった。
(海上に上がるよ。ゆっくり……こんな深いところから一気に上に上がったりしたら危険だから。息はできるね?)
『俺は、死んでマーマのところに行くんだ』
(今 氷河がマーマのところに行っても、氷河のマーマは喜ばないよ。きっと悲しむ)
『そんなはずない』
(悲しむよ。悲しむに決まってるでしょう。氷河のマーマは、何のために自分の命をかけて、氷河の命を守ったの)
『それは――』

少しずつ、ゆっくりと、注意深く、瞬は氷河の身体を上に運んだ。
かろうじて届いていた日の光。
その光が あふれている場所を目指して。
そんな力など残っていないくせに――残っていないからこそ? ――『マーマのところへ行く』と言い張る氷河を説得しながら。

(生きて。氷河)
『あの日、マーマも最期に そう言った……』
(うん……)
氷河の母は、どれほど氷河を愛していたことだろう。
氷河の母の気持ちを思うと、瞬は胸がしめつけられた。
彼女が守った命を、今 自分も守ることができた。
それが嬉しく、誇らしい。
何より、氷河が再び生きる決意をしてくれたことが嬉しくて、東シベリア海の底で――そうなのだろう――瞬は心からの笑顔を作ったのである。






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