「聖闘士になって、マーマの船が沈んでいるところに行けるようになりたい」
シベリアにやってきて 最初に師と対面した時、聖闘士になりたい理由を訊かれた氷河は そう答えた。
氷河の答えを聞いた彼の師が、あからさまに眉をしかめる。
「聖闘士というものは、そういうものではない。そんな私的な理由でなっていいものではない。そういう覚悟でいるのなら、ここから出ていけ。修行などしても無駄だ」
師に きっぱりと そう言われ――だから、氷河は本心を口にしなくなったのである。

母に会うという目的が、聖闘士にならなくても果たせるのであれば、氷河は 特段“聖闘士”というものに固執する気はなかった。
が、その目的を果たすことのできる道が他にないとなれば、話は別である。
氷河は何としても聖闘士にならなければならず、それゆえ 氷河は“ここを出ていく”わけにはいかなかった。
師の叱責に反省した振りをして、氷河は彼に教えを乞いたいと食い下がった。

氷河の反省が ただの“振り”にすぎないことを見抜けなかったわけではなかったろうが――なにしろ子供のすることである――氷河の師になるべき人は、氷河の願いを退けるようなことはしなかった。
聖闘士としての正しい自覚は 修行の中で学ばせればいいと、彼は考えたのかもしれなかった。
あるいは、聖闘士としての自覚を身につけることを含めて修行なのだという考えが、彼の中にはあったのかもしれない。

そうして 始まった氷河の修行の日々。
氷河は師に隠れて、機会を見付けては海に潜り、母の眠る船にまで行くことができるかどうか、その力が自分に備わったかどうかを試していた。
最初は10メートル潜るのも大変だったのだが、修行の目的が明確な分、その成果は目覚ましいもので、氷河は まもなく、水温の高低にかかわらず100メートル、200メートル程度の深さまでなら、地上を駆けるのと大差ない軽快さで潜っていくことができようになったのである。
しかし、そこから更に深いところに進むのは、聖闘士になるための修行を積んだ(積みつつある)者にも困難を極めることだった。

氷河の行く手を阻んだもの。
それは低水温でも 呼吸が続かないことでもなく――そういったことは、身体を鍛え、肺を鍛えることで どうにかなった――水圧だった。
氷河の母が眠っている船が沈んでいる場所は、水深300メートル超の海底。水圧は30気圧を超える。
それは、どれほど鍛えた肉体の持ち主にでも耐えることは ほぼ不可能な圧力。
肉体の忍耐以前に 意識を保ち続けることが難しく、氷河は幾度も失神寸前状態になり、諦める――ということを繰り返すことになった。
それでも――潜るたびに少しずつ、氷河と氷河の母の眠る船の間の距離は縮んでいったのである。

氷河が初めて母の眠る船の姿を自分の目で認めることができたのは、彼が聖闘士になるための修行を開始してから2年近くが経った頃。
やっと ここまで来たという歓喜の思いが、氷河に、『次に潜る時には必ず母に会う』という決意を強くさせた。
そして、その日。
体調を万全の状態に整え、いつにも増して固い決意でシベリアの海に挑んだ氷河は、ついに母が眠る船のマストの先に触れることができたのである。

(やった……!)
心の中で、そう快哉を叫んだ まさに その瞬間、氷河の身体は全く動かなくなってしまった――動けなくなってしまったのだった。
まるで、突然 聖闘士になるための修行を始める以前の彼に戻ってしまったように――普通の人間の身体に戻ってしまったかのように。
これは、海の神が 人間の傲慢を罰しようとしているのか、あるいは 深海という巨大な自然が人間の非力を嘲笑っているのか――。
氷河は、自分の意思では、船のマストを掴んだ自分の指を解くことさえできなくなっていた。

激しく渦巻く海流。
海水が突如 水銀に変わってしまったかのように重い圧迫。
だが、ここまで来て諦めることができるものだろうか。
この苦しみを乗り越えれば、母に会うという目的は果たされるのではないか。
ここが正念場――ここは臨界点であって、限界ではない。
何より、ここで諦めて力を抜き 海という意地の悪い敵に身体を預けて浮上すれば、急激な水圧の変化のために身体がばらばらになることが目に見えているではないか――。 
様々な思いが、とりとめなく錯綜し、結論を出すことができない。
結論が出ても、それを実行に移す力は もはや残っていない。
自分が 既に その機を逸してしまったことに、やがて氷河は気付いたのである。

では、自分はここで死ぬのだ――。
そう思った途端、氷河の気持ちは楽になった。
身体までが軽くなったような気がする。
ここで自分は死ぬのだ。
氷河は、それでいいと思ったのである。
本当は――自分が本当に望んでいたのは――聖闘士になって 海底深くで朽ちている船に眠る母に会いに行くことではなく、本物の母の許に行くことだったのだと、氷河は思った。
自分の願い――本当の願い――が、ついに叶うのだ。

半ば以上喜びに支配された状態で、氷河が そう思った時だった。
氷より冷酷に氷河から体温を奪っていたシベリアの海の水が温かくなり、呼吸が楽になり、氷河の身体を押しつぶそうとしていた水圧が嘘のように消え去ってしまったのは。

『氷河……大丈夫?』
その人は、なぜか氷河の名を知っていた。
その人は温かく、優しく、美しく、そして力強く、氷河の諦観を たしなめてきた。
天国には懐かしい母がいるのだと思っていたのに、氷河が そこで出会ったのは緑色の瞳の人魚だった。
そこはまだ冷たいシベリアの海の中。
(息ができる……。なんでだ?)

『生きて』
緑の瞳の人魚は、氷河の母と同じ言葉を氷河に囁き、そして 氷河を光あふれる世界へと導いてくれたのだった。






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