「王子というのは、馬鹿と相場が決まっている」
と、白鳥座の聖闘士が言い出したのは、瞬が氷河を“王子様”に たとえたからだった。
その夜、沙織はリヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』の観劇のために外出し、城戸邸に残っていたのは彼女の聖闘士たちだけ。
侯爵夫人と不倫関係にあった青年が、夫人の従弟の婚約申し込みの使者“ばらの騎士”として向かった先で 若い女性に恋するという『ばらの騎士』の内容を知らなかったらしい星矢が、瞬に、
「それって、氷河みたいなのが出てくるオペラなのか?」
と尋ねたのが、そもそもの始まり。
瞬は、そんな星矢に、
「氷河はむしろ、『ローエングリン』の白鳥の騎士か、『白鳥の湖』のジークフリート王子でしょう」
と答えたのである。

もちろん瞬に悪気はなかった。
年上の女性との不倫に耽溺したあげく、その侯爵夫人を傷付けて、自分はちゃっかり若く清純な少女と結ばれる“ばらの騎士”に なぞらえられるより、高潔な騎士や 恋に命をかけた王子に たとえられる方が、氷河も不快ではないだろう。
そう考えての言葉だったのである。それは。
しかし、氷河は、それが気に入らなかったらしい。
これ以上の侮辱があるかと言わんばかりの剣幕で――だが、冷めた口調で――彼は真っ向から瞬の意見を否定してきたのだった。

「ば……ばか……?」
“王子様”というものに対して、“姫君を愛し、守る、颯爽とした人”というイメージをしか抱いていなかった瞬は、氷河の言葉に驚き、その瞳を見開いた。
そんな瞬の前で、氷河が滔々とうとうと 彼の持論を展開し始める。
「馬鹿だろう。『人魚姫』の王子は、自分の本当の命の恩人に気付かず、人魚姫を悲しませた。『白鳥の湖』の王子は、自分の恋人と悪魔の娘の区別がつかなかった。『シンデレラ』の王子は、自分の恋人を探すために大騒ぎして 人材と金の無駄使いをした。『白雪姫』の王子はネクロフィリアだし、『眠れる森の美女』の王子は、妻のある身で、眠れる森の美女に子供を産ませた外道だ」
「え……あ……でも、それは――」
「おとぎ話の王子は馬鹿ばかりだ。だが、俺はそんなことはしないぞ。決して、命の恩人を誤認するような馬鹿はしない。人魚姫と別人を見誤ったりなどしない」
「あ……あの……」
「たとえ戯れ言にすぎないとしても、そんなものに たとえられるのは不愉快だ」
「ご……ごめんなさい……」

氷河が口にした王子たちの所業は、ある意味では紛う方なき事実である。
瞬は 咄嗟に反駁の言葉を思いつくことができず、それゆえ 氷河に謝らないわけにはいかなかった。
瞬に謝罪されても 怒りが静まらなかったらしい氷河が、積年の恨みを抱いた仇敵を見るような目で 瞬を睨みつけ、乱暴な足取りでラウンジを出ていく。
氷河がラウンジのドアを閉じるために作った大きな音は 瞬の両肩を力なく沈ませ、この騒ぎの元々の原因を作った星矢は、そんな仲間の振舞いにあっけにとられることになった。

「なんだよ、あれ。まるで親の仇か何かみたいに、瞬を睨みやがって。瞬は悪気があって言ったわけじゃないし、金と権力があって、いい服着て、立派な城で ご馳走食べ放題のオウジサマなんて、幸運でめでたい奴だってことじゃん」
星矢の王子様像も 瞬のそれとは かなり違っていて、瞬を大いに戸惑わせたのだが、それで瞬は、氷河の激昂の訳が わかったような気がしたのである。
“恵まれた人間”という王子様のイメージが――それは決して悪いことではないし、王子に責任のあることでもないのだが――氷河は気に入らなかったのだろう――と。

「氷河は、生まれながらに恵まれた幸運や才能より、努力を重視しているのかも……」
「努力を重視? 運がよくて聖闘士になれたと思われたくないってことか? んなの、当たりまえじゃないか」
呆れたように言う星矢に、瞬は頷くことしかできなかった。
「そうだね。当たり前のことだね……」
ここにいる者たちは皆、一般的には当たりまえではない“当たりまえのこと”をして 聖闘士になった者たち。
ここには王子様は一人もいない。
誰もが、“生まれながら”の不運に打ちのめされず、降りかかってくる不幸を撥ね退け、不遇の中で勝ち残ってきた、(聞こえは悪いが)成り上がり者だった。

自分がそういう人間の一人であることに 引け目を感じたことはないし、そんな自分と仲間たちを誇らしいとも思っている。
“恵まれた”王子に生まれついた人を妬むつもりはないし、“成り上がる”ことができなかった人たちを蔑む気持ちもない。
瞬はただ、そういう意味では全く同じ立場にいるはずの自分が、氷河に嫌われ憎まれている(らしい)ことが 悲しいだけだった。
氷河は、アンドロメダ座の聖闘士を憎んでいるのだ。
聖闘士になって再会した その時から、突き放すような態度と表情ばかりを氷河に向けられ続けていた瞬には、そうなのだとしか思えなかったのである。

「それにしても……氷河の奴、なんだって あんなふうになっちまったんだ? あいつ、ガキの頃は、フツーに瞬にも優しかったし、なんつーか こう……瞬のこと構いたがって、まとわりついて、それこそ瞬の王子様志願みたいだったじゃん」
しょんぼりしている瞬を見兼ねたのか、星矢が くしゃりと顔を歪ませて、そんなことを言い出す。
星矢の発言には、すぐに紫龍から訂正が入った。
「それは違う。普通に瞬に優しかったのではなく、氷河は、瞬にだけ“特別に”優しかったんだ」
「そうそう。フツーはさ、あの年頃のガキって、好きな子には意地悪したり、わざと無視したりするもんじゃん。だけど、ガイジンなせいか、単に ませガキだったせいなのか、氷河だけは堂々と瞬にアプローチしてくから、いつも 一輝に睨まれてたよな、あいつ」
「一輝に睨まれても一向に振舞いを改めない氷河に、俺は内心で舌を巻いていたんだぞ。それが――」
「それが、今じゃ まるで逆だもんな。いや、逆でもないのか。好きだから意地悪したり、素っ気なくしてるっていうより、なんか瞬を憎んでるみたいだよな、今の氷河は」
「……」

そんなことを言い募る星矢に悪気がないことも、彼は 失意の仲間を力づけるために事実の検証に取り組んでいるだけなのだということも、瞬には わかっていた。
だが、それが事実の羅列にすぎないことがわかっているからこそ、星矢の言葉は 瞬の胸を刺したのである。
「なあ、瞬。おまえ、氷河と何かあったのか?」
「心当たりはないの。あったら、とっくに 謝るなり何なりしてるよ」
「だよなー……」
それもそうだという顔をして、星矢が頷く。
瞬は意気消沈し、氷河の姿を呑み込んだラウンジのドアを切なく見詰めることになった――そうすることしかできなかったのである。






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