「ニューサの野に不思議な泉が出現したそうなの」 冥府の王ハーデスが地上侵攻を開始して、既に3ヶ月。 ハーデス自身は 未だ姿も気配も現わさないが、ハーデス麾下の冥闘士たちは 地上のあちこちの主要地域――強大な力を持つ国の都や 穀倉地帯――を襲撃し、その地を自軍の支配下に置こうとしていた。 冥界軍来襲の報を受けるたび、聖域の聖闘士たちは その地に飛び、今のところは かろうじて決定的敗北を喫してはいない。 だが、冥界軍の兵や冥闘士の数を考えれば、それもいつまで続くことか。 そんなふうに、聖域の誰もが 深刻な懸念と焦慮に捉われている今。 それが何者による襲撃なのかを知らない市井の人々が、不安を募らせている今。 てっきり ハーデスの地上侵攻の件で新たな命令が下るものと考え、緊張して アテナの呼び出しに応じた氷河は、他愛ない世間話を始めるように アテナが持ち出した その地名に 少なからず戸惑うことになったのである。 ニューサの野は、聖域から さほど遠くない――聖闘士の足で駆ければ、半日の半分、更に半分もかからずに行ける場所だが、そこには 特段 大きな町や国があるわけではない。 土が農業に向いていないので、農作物の産地というわけでもない。 言ってみれば、ただの野原なのである。 “荒地”ではなく“野原”なのは、麦や野菜は無理でも、生命力のある野草なら根付けるから。 ニューサの野は、野の花で埋まった、美しくはあるが不毛の地。 とてもハーデスが目をつけるような重要な土地ではないのだ――そのはずだった。 「は?」 氷河の間の抜けた反応を無視し、答えを与えることもせず、アテナが重ねて白鳥座の聖闘士に 別の質問を投げかけてくる。 「あなた、アレトゥーサの泉は知っているかしら?」 飛躍が激しすぎるアテナの話に、まるでついていけない。 幸い、氷河がアテナについていけなかったのは、あくまでも悟性であって 知性ではなかったので、氷河は彼女の質問に(質問の意図と意義も わからないまま)答えを返すことだけはできたのだが。 「アレトゥーサの泉というと――川の神アルペイオスに目をつけられたニンフのアレトゥーサが、純潔を守りたいと アルテミスに願い、その姿を泉に変えてもらったという、あの泉ですか? 確か、シラクサにあると聞いていますが」 「ええ、そのアレトゥーサの泉よ。アルペイオスは水に姿を変えて どこにでも流れていくことができるので、アレトゥーサは今でも 彼から逃げるために あちこちに移動を続けているという話。シラクサだけでなく、地中海の底を通ってオルティージャ島に湧き出たという話もあるわ」 「それがどうか」 それがどうしたというのか。 神の身でありながら、人間を愛し 人間の生きる地上世界を守るために腐心してくれている女神アテナに対して 不敬の極みではあったが、氷河は どう考えても現在 地上が見舞われている危機に関係があるとは思えないアテナの話に、苛立ちを覚え始めていた。 今 こうしている間にも、地上に生きる無辜の民が、冥界軍の脅威に さらされ、あるいは傷付き倒れているかもしれないのだ。 好き者の神と 頑なな処女の痴情のもつれの顛末など、のんびり聞いている気にはなれない。 だが、アテナは――氷河の焦慮と苛立ちに気付いていないはずがないアテナは――彼女の話をやめなかった。 「要するに、泉というものは、そんなふうに大切なものが隠れている場所、大切なものを隠しておく場所だということよ。これまで どこにあるのか その場所がわからなかった、ある泉がニューサの野で見付かったの」 本当に、それがどうしたというのか。 「それも、どこぞの純潔志願の頑固な乙女が姿を変えた泉なんですか」 問い返す氷河の声には、2、3本では済まない棘が含まれていた。 アテナは、しかし、そんな氷河の態度を責めることはしなかった。 氷河に付き合って、苛立ち 焦ることもしてはくれなかったが。 「純潔志願かどうかまでは、私にも わからないわ。でも、そう。そこにいるのは 素晴らしく清らかな魂と 美しい姿を持った人間でしょうね。ハーデスが好みそうな」 アテナの口から、冥府の王の名が出てくる。 途端に、氷河の中で渦巻いていたアテナへの苛立ちは霧散した。 これは、ハーデス絡みの話であるらしい。 氷河は、全身を――心も、もちろん――改めて緊張させた。 「その泉の調査を、あなたに お願いしたいの。その調査の結果によっては、私たちは、労せずして ハーデスの侵攻を止めることができるようになるかもしれない」 「ハーデスの侵攻を?」 たかが泉一つが、それほどの力を秘めているというのか。 いったい その泉に隠されている“大切なもの”とは何なのか。 ハーデスの武器、神聖衣、あるいは 命そのもの。 “清らかな魂と 美しい姿を持った人間”とは、ハーデスの大切なものの守護者なのか、ハーデスの兵なのか。 ハーデスが 未だに地上世界に姿を現わさないことには、その“大切なもの”が 何らかの形で関わっているのか――。 考えばかりが急いて、焦る自分を、氷河は懸命に自制した。 アテナ神殿の玉座の間。 その場には アテナと白鳥座の聖闘士の他に人影はないというのに、アテナが声をひそめて、白鳥座の聖闘士に 更に重大な打ち明け話を始める。 「ええ。今のところ、聖域は、各地の戦いで冥界軍を抑えることができているわ。でもね、ハーデスは、本来は こんな まどろっこしい戦い方をする神ではないのよ。ハーデスなら、天体を操って、地上世界に永遠に陽の光が届かないようにすることも容易にできる。彼が そうしないということは、彼の側に、その真の力を使えない何らかの支障が生じているのだとしか考えられない。その謎の答えが、おそらく ニューサの泉に隠されているのよ。そう、私は踏んでいるわ」 『本来は こんな まどろっこしい戦い方をする神ではない』というアテナの言葉に、氷河は背筋がぞっとしてしまったのである。 ハーデスが まどろっこしくない戦いを始めたら、地上は、聖域は、いったいどうなってしまうのか。 考えただけで――否、氷河は そんなことは、考えることも御免被りたかった。 戦慄が、逆に氷河の心を落ち着かせる。 ハーデスが それほどの力を持つ神だというのなら、局地戦での勝敗に こだわっていても無意味である。 人類は、現在とは桁違いの脅威に さらされようとしているのだ。 それを阻止することこそ、アテナの聖闘士の真の務めだろう。 だが――。 「そんな重大な任務を任されるのが 俺でいいんですか」 氷河は白鳥座の聖闘士、アテナの聖闘士の中では最下位に位置する青銅聖闘士である。 決して、世界の命運がかかった重大な任務に 怖気づいているわけではないのだが、その任務を青銅聖闘士ごときに任せることを よしとしない者もいるのではないか。 冷静になってしまったせいで、氷河の中には自分より高位の聖闘士たちの体面を考える余裕が生じてしまっていた。 アテナが、そんな氷河に首肯する。 「その泉は、凍ってはいないのだけど、氷の棺並みに冷たい水が湧き出してできた泉なそうなの。星矢あたりが飛び込んだら、心臓麻痺で冥界に一足飛びでしょうね」 「不吉なことを言わないでください」 星矢に冥界に行かれてしまったら、星矢が敵になってしまうではないか。 例え話にしても、よい趣味とは思えないアテナの言に、氷河は 思わず顔をしかめてしまったのである。 だが、これで、事情はわかった。 この任務は、白鳥座の聖闘士にしか成し得ない任務なのだ。 氷河は、アテナの人選を信じることにした。 |