今は危急存亡の秋。 事は急を要する。 その日のうちに、氷河は問題の泉の岸辺に立っていた。 見渡す限り 花で埋まった広いニューサの野。 信じられないほど澄んだ水をたたえた小さな泉。 その泉の周囲にだけ植物の姿がないのは、冬のシベリアで花が咲かないのと同じ理由のようだった。 水が、凍っていないのが奇異に思えるほど冷たいのだ。 その水が、普通の人間なら 岸に立っただけで凍死しかねないほど、周囲の空気と土を冷やしている。 もしかしたら、陽の光が届かないという冥界も こんな様子をしているのかもしれないと、氷河は思うともなく思ったのである。 星矢が飛び込んだら 心臓麻痺で冥界に一足飛び――というアテナの言は、あながち冗談ではなかったのかもしれないと。 おそらく、白鳥座の聖闘士が、初めて その泉の中を覗き込んだ人間――ということになるのだろう。 泉の底にあるものを見た人間も、白鳥座の聖闘士が初めてであるに違いなかった。 濁りの全くない泉の底には、花園があった。 水面から その花園までの距離は、いったいどれほどあるのか。 遠く小さく見えるのに、泉は、花園の光景を、氷河の目に 妙に鮮明に映し出してくれた。 そこに行くつもりだった氷河は、目算で距離を(物理的な距離を)測ることを すぐにやめてしまったのである。 まともに考えれば、泉の底に花園があるはずがない。 そこは尋常の空間ではなく、異次元なのだ。 この泉は、異次元にある花園と 地上世界をつなぐ扉にすぎない。 花園の中に人影が一つ――泉の底に見える花園には、誰か――おそらく人間――がいた。 かなり小柄。成人男性ではない。ほぼ間違いなく、少女。 泉の底にある人影を見て、氷河はふと、彼の故国ロシアに伝わるルサルカの物語を思い出したのである。 水の世界に住む水の精ルサルカが人間に恋をして、裏切られ、結局 恋人を その口付けで殺してしまう物語。 ルサルカの口付けは、人間に死をもたらす死の口付けなのだ。 水の精の恋心を踏みにじった不実な男は、彼女の口付けを受け入れて死ななければならない――。 「美女なら、それもいいが」 軽口を叩いたのは、自身を奮い立たせるためだったろう。 泉の底の花園にいる少女は、何か特別な力を持つ人間なのかもしれない―― 十中八九そうだろう。 その力を、他の誰にも奪われないために、ハーデスによって 彼女は この泉に隠されている――と考えるのが妥当。 もし その力がハーデスを利する力であるならば、彼女はハーデスに守られているのであり、アテナは彼女をハーデスの手許に置きたくはない。 もし その力がハーデスを害する力であるならば、彼女はハーデスに囚われているのであり、アテナは彼女の解放を期待している。 そのどちらであるのかを確かめるのが、白鳥座の聖闘士の仕事。 そして、その仕事には、世界の命運がかかっているのだ。 氷よりも冷たい泉の水は、余人には強固な障壁であり、厳重な鍵でもあったろうが、氷河には やわらかな薄手のカーテンのようなものでしかなかった。 氷河は、逡巡らしい逡巡もなく、だが 意を決して、異次元への扉である泉の中に飛び込んだのである。 |