泉の底の花園では 暖かい春の微風が吹いていた。
氷河は瞬時、自分は 異次元への扉を通って 元のニューサの野に戻ってきてしまったのかと思ったのである。
だが、そこには、ニューサの野には なかったものがあった。

花園の中央(?)に、小さな城館。
その城館の前、咲き乱れる花の中に少女の影が一つ―― 一つだけ。
そして、水のような空。
氷河が近付いていっても、彼女は恐がる様子は見せなかった。
神でもニンフでもなく、人間のようだった。
そして、人間を恐れてはいないようだった。

「あなたは誰」
尋ねてくる声が弾んでいる。
美しい蝶や小鳥の飛来を喜ぶ、無邪気な子供のように。
とはいえ、彼女は子供ではなかった。
大人でもないが、完全な子供でもない。
氷河より数歳 年下。
10代半ばといったところだろうか。
そろそろ恋を知っていい年頃だと、氷河は思った。
氷河がそう思ったのは、もちろん、彼女が すこぶるつきの美少女だったからである。
この子となら、それが自分に死をもたらすものとわかっていても、喜んで死の口付けを交わしたいと思えるような。

素晴らしい美少女だと 胸中で快哉を叫んでから、氷河は 彼女の佇まいに奇妙な違和感を覚えることになった。
顔立ちが あまりに可愛らしくて――彼女は、“可愛らしい”の一言で片付けられない清らかさを 全身に たたえていた――氷河は誤解していたのだ。
誤解以前に、氷河は ろくに確かめもせず決めつけていた。
これほど美しい人間が少女でないはずがないと。
これほど白く華奢な四肢の持ち主が少女でないはずがないと。
だが、薄布の衣服越しに見てとれる体型は、どう見ても男子のそれ。
美少女は、美少女ではなく少年だったのだ。
とはいえ、その事実に気付いても、氷河は落胆もしなかったが。

少女だろうと少年だろうと、彼女――もとい、彼――が、美しく可憐なことに変わりはない。
むしろ、男子でこれなら、奇跡と言っていい美貌である。
中性的というより、無性的。
アドニス、ナルキッソス、ヒュアキントス――神々に愛された美少年の名を胸中で並べ立てながら、彼等の誰も この子の清純な美貌には敵わないだろうと(彼等の顔も知らないのに)氷河は決めつけた。
今 氷河の前にいるのは、並の美少年とは 美の種類と次元が違う人間だった。
アネモネアドニス水仙ナルキッソスヒアシンスヒュアキントス――花に化身した美少年たちには、どこか官能的で なまなましいイメージがあるが、今 氷河の目の前にいる人間には 肉感的なものが まるで感じられなかった。
彼――彼なのだろう――は、性的魅力ではなく、それとは真逆の清らかさによって、氷河の心と五感を揺さぶっていた。
間違いなく、生身の人間だというのに。

その清らかな少年が、澄んだ瞳で、突然の来訪者を見上げ、来訪者の答えを待っている。
これほど澄んだ瞳の持ち主に、よくできた嘘や 言い訳を言う気にはなれない。
氷河は、へたな作り話はせず、本当のことを彼に告げた。
「泉に飛び込んで、気がついたら、ここにいたんだ」
それは紛う方なき事実だというのに、そう答えてから、氷河は その事実に 全く信憑性がないことに気付いたのである。
泉に飛び込んだはずの人間が、どこも濡れていないのだ。
やはり あの泉は自然が作った泉ではなく、神の力で作られた泉だったらしい。
幸い、世にも清らかな瞳の持ち主は、泉に飛び込んだ男が 髪1本濡れていないことを おかしなこととは考えずにいてくれたようだった。

「あなたは、ハーデス以外の初めてのお客様です。お名前は」
人懐こい瞳――むしろ人を疑うことを知らないような瞳の持ち主が、人類と聖域の宿敵の名を、いとも気安く口にしてみせる。
見るからに か弱く、細く、美しいこと以外に特別の能力があるとは思えない この美少女が――もとい美少年が、ハーデスに関わりのある人間であることは確かな事実のようだった。

「氷河だ」
「氷河だね。氷河。僕は瞬だよ」
「瞬か。では、瞬。ここはどこだ。泉の下になぜ こんな花園があるんだ」
瞬は、自分が 自分以外の人間の名を呼べることが ひどく嬉しいらしい。
そして、自分が 自分以外の人間に名を呼んでもらえることも 嬉しくてならないらしい。
自分の名を呼んでくれる人に秘密など持てないというかのように、どんな ためらいも見せずに、瞬は氷河の質問に答えを与えてくれた。

「ここはハーデスが僕のために作ってくれた花園だよ。地上は凶悪な人間や醜悪な争い事で満ちていて危険だから ここを作ったんだって、ハーデスは言っていました。氷河は どこから来たの? 地上から来たの? 氷河は恐い人?」
幼い子供のように片言だったり、ちゃんとした文章だったりする瞬の言葉使いが、氷河には少々 奇妙に感じられた。
どういう人間なら こういう言葉使いをするようになるだろうと考えながら、瞬に反問する。
「おまえには、どう見える」
「氷河は とても綺麗。恐い人には見えない」
「外見で人を判断するのは危険だぞ」

その言葉は、瞬への忠告というより、氷河が自分自身に言いきかせるために口にした言葉だったかもしれなかった。
どれほど澄んだ瞳の持ち主でも、ハーデスの名を気安く口にする人間が、その姿の通りに清らかであるとは限らない――清らかである方がおかしい。
たとえば、社会における善悪を学ぶ機会がなかった人間は、罪悪感なく 澄んだ瞳で罪を犯すことがあるかもしれないではないか。

氷河の忠告に、瞬が少し戸惑った様子を見せる。
もっとも、その戸惑いは、氷河の忠告を言葉通りに受け取って反省したからではなく、氷河が言葉にはしなかった懸念を感じ取ったからでもなく、自分の発言が誤解されていることに気付いたせい、あるいは、自分の失礼に思い至ったからのようだったが。
「あ、お顔も綺麗です。ごめんなさい、気付かなくて。僕が言ったのは、氷河の目のことだよ。綺麗な青。すっかり晴れている時の空の色だね」
瞬が綺麗だと言ったのは、氷河の面立ちのことではなく、瞳の様子のことだったらしい(それも外見といえば外見だろうが)
ハーデスが作ったという花園で出会った二人は、示し合わせたわけでもないのに、示し合わせたように、互いの瞳に魅入られていたらしかった。

それは ともかく。
この花園の上にあるものは、空は空でも、水でできた空。
凍っていない氷のような、ほぼ無色透明の、空の色をしていない空だった。
白鳥座の聖闘士の瞳と同じ色の空を知っているということは、瞬が ここ以外のどこかで――おそらくは地上世界で――空を見たことがあるということである。

「空を見たことがあるのか。どこで」
「……わからない」
「わからない? おまえはずっとここに――ここで生まれ育ったわけではないのか」
「……僕、よく憶えていないの。気がついたら、ここにいて……。ハーデスが 外は危険だって言って、よそに行くことを許してくれないの」
「……」
瞬は地上世界で見ることのできる空の色を知っている。
だが、それを どこで見たのかは憶えていない。
瞬の頼りなく あやふやな言葉が事実だとすれば――もちろん瞬は嘘はついていないだろう――、瞬は もともとは地上世界で暮らしていた普通の人間――と考えるのが妥当である。

ハーデスは瞬を地上から さらって、この花園に連れてきた。
そして、ハーデスにとって不都合な記憶を消し去った。
そう考えれば、瞬が本物の空の色を知っていることも、言葉使いが ちぐはぐなことにも説明がつく。
本来の瞬は、もっと大人びた言葉使いをする子なのだ。
それなりの文章作成能力も構成力もある。
ただ、記憶を部分的に消し去られた際に 過去の学習経験の多くを奪われ、そのために どこか子供じみた言葉使いになってしまっている――ということのようだった。

冥府の王ハーデスが、瞬に そこまでのことをするのは なぜなのだろう。
やはり、瞬は何らかの特別な力を持っていて、ハーデスは その力の発現を恐れているのだろうか。
が、それにしては、瞬は ただ ひたすらに美しく可愛らしいだけで、その手足は細く、特別の力を備えているようには見えない。
瞬が、対峙する者に 最も強い力を感じさせるのは、澄んで綺麗な その瞳だった。






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