「つまり、おまえは、ハーデスに気に入られて ここに連れてこられ、ハーデスに守られ、誰からも傷付けられず、平和で穏やかな世界で幸福に暮らしている――というわけか?」 そう尋ねる氷河の声に 非難と皮肉の響きが混じったのは、自分が 青い空をどこで見たのかも憶えていないことに、瞬が全く不安を感じていないように見えるから――瞬が、現状を肯定し 受け入れているように見えるから――だった。 もし 今の瞬の立場に置かれたら、自分は、ハーデスの作為の意味と悪意を疑い、奪われた記憶を取り戻そうとするだろう。 しかし、瞬はそうではない(らしい)。 その事実が、氷河は不愉快だったのである。 瞬は、氷河に向かって、更に不愉快な言葉を重ねてきた。 「人間が神に従うのは当然のことでしょう?」 疑いもなく そう信じているらしい瞬の答えに、氷河は むっとした。 「そうだな。神に従い、神の言うことをきいていれば、平和と幸福は守られる」 「平和はそうだけど、幸福は違うでしょう。幸福って、人によって違うものだし」 「……」 瞬からの、思いがけない指摘。 瞬は 過去の生活上の記憶は奪われているが、その思考力や判断力までは奪われていないらしい。 生活上の学習経験は失われていても、瞬は自分でものを考えることができる人間であり、しかも かなり賢い人間のようだった。 瞬の この澄んだ瞳は、無知によって作られているものではない。 そして、やはり瞬は 地上にいたことがあるのだ。 『幸福は、人によって違う』 それは、“人”を――それも複数の人を――知らなければ出てこない言葉である。 「なぜ、いつ、どんなふうに ここに連れてこられたのかを、おまえは憶えていないのか? 地上に戻りたいとは思わないのか」 瞬がハーデスの囚人であることを望んでいないのであれば、地上世界に戻りたいと思っていてくれるのであれば、そのためにできることは何でもしたい。 そう考え、気負い込んで尋ねた氷河への瞬の返答は、だが、氷河の期待に反するものだった。 瞬は、素直な目をして、 「僕、ここから出られないの。ハーデスが許してくれないと。ここは平和だけど、地上は争いばかりで、危険だからって」 と、氷河に答えてきたのだ。 神の言葉に従うのは当然。 神の言うことには逆らえない。 そう、瞬は考えているらしい。 「しかし、ここで ぼんやりしていても退屈だろう」 失望で、氷河の言葉と態度が つい投げ遣りなものになる。 神の従順な僕であるらしい瞬は、首を横に振った。 「時々、ハーデスが来てくれるよ。今は氷河がいてくれるし」 嬉しそうに言うところを見ると、やはり 退屈ではあったのだろう。 だが、積極的に 娯楽や自由を求めて、神に逆らうことはできない――しない、大人しい人間。 氷河は、少し――否、大いに――がっかりしてしまったのである。 この従順さから察するに、瞬は 神に逆らう力があって、ここに閉じ込められているのではないように思えたから。 だが、氷河は すぐに、今は のんきに がっかりしている時ではないことに気付いたのである。 ハーデスが ここに来ることがある――とは。 女神アテナの力をもってしても 容易に退けることのできない相手――冥府の王ハーデス。 彼を、一介の青銅聖闘士に倒すことができるとは到底思えない。 「俺がここにいることがハーデスに知れたらまずいか? 俺はハーデスに招待されて ここにきたわけじゃない」 慌てて、氷河は瞬に尋ねた。 瞬が、緊張感のない声で答えてくる。 「ハーデスは優しいから、怒ったり、無理に追い出したりはしないと思うけど」 「優しい? ハーデスが地上で何をしているのか知っているのか」 「地上で? ハーデスは地上で 何をしているの?」 「おまえの神は、地上世界と、そこに生きる人間を滅亡させようとしている」 「その人たちは、ハーデスを怒らせるような、何か悪いことをしたの」 「かもしれんが、ハーデスの手下たちが傷付け倒している者たちの中には 無辜の民もいる。幼い子供や、生まれたばかりの赤ん坊も。ハーデスの手下たちは、滅ぼすとなったら、人単位ではなく、村単位、国単位で片っ端からだからな」 瞬はハーデスが――より正確には、彼に従う冥界軍が――地上で何をしているのかを、全く知らなかったらしい。 少し青ざめた頬をして、瞬は氷河に提案してきた。 「やめてくださいって、お願いすれば……」 「“お願い”しても、きいてもらえるとは思えんな。地上と地上にいる人間は醜悪にして不従順。だから、十把一絡げで問答無用。ハーデスは そういう考えでいるようだし」 「……ハーデスは なぜそんなふうに考えるようになったの。地上の人たちはハーデスに――神に逆らったの? どうして? 神に従っていれば、命も暮らしも神に守ってもらえるし、国や町の平和も神の力によって守られるよ」 「神に従っていれば平和? そのために、己れの自由と権利を神に差し出すのか? 不本意でも、神の命じることには何でも従うのか? おまえはハーデスが死ねと言ったら、死ぬのか」 「神の加護なしに人間が生きていくことはできないでしょう?」 あっさりと――驚くほど あっさりと、瞬は そう答えてきた。 瞬は、ハーデスに『死ね』と言われたら、その言葉に従って 死ぬつもりでいるらしい――死ぬしかないと思っているらしい。 だが、氷河は、そんな死に方も生き方も御免被りたかったのである。 氷河は、自分の死に方も生き方も、神の意思ではなく、自分の意思で決めたかった。 「俺は抵抗する。神に対しても。おまえは神に媚びへつらって生きるがいい」 必要以上に刺々しい口調になったのは、この美しい人間が 自分とは真逆の考え方、価値観を有していることが残念だったから――無念だったから。 氷河の苛立ちに気付いたようではなかったのに――そもそも瞬は、皮肉や嫌味を感じ理解する能力を有しているのかどうかさえ疑わしかった――瞬は、切なげな眼差しで氷河を見詰め、小さな声で呟いた。 「でも、ハーデスが氷河を殺すって言ったら、僕もハーデスに逆らうかもしれない……」 「……」 その呟きを聞いて、瞬に対する氷河の苛立ちと怒りは 一瞬で萎えてしまったのである。 いったい この可愛らしい生き物は何なのだろう。 なぜ 瞬は これほど可愛らしく健気なのだろう。 瞬の神への従順は、決して瞬の罪ではない。 瞬に非のあることではない。 瞬は悪くはない。 むしろ、聖闘士以外の人間の大部分は、神に従順であることは美徳、善良さの証と信じているのだ。 「でも、ハーデスが僕に優しいのは本当だよ」 瞬が、なぜか申し訳なさそうに、遠慮がちに、氷河に訴えてくる。 瞬は、誰も悪くないと――悪い人はいないと、信じていたいようだった。 氷河も、地上の人々も、ハーデスも。 しかし、実際は そうではないのだ。 氷河も、それはわかっていた。 盲目的にハーデスだけが悪いのだとは、氷河も思い込んでいるわけではなかったのである。 「それは、おまえが特別に綺麗で清らかだからだろう」 「他の人たちは違うの」 「違うな。地上にいる人間は誰もが、狡猾さや卑劣さを その内に秘めている。それが人間のすべてというわけではないが」 「悪い人なの」 「だから命を奪われてもいいとは――」 『言えないだろう』と言いかけて、その言葉を呑み込む。 『言えるのかもしれない』と、一瞬だけだが、氷河は思ってしまったのである。 氷河自身、ハーデスを地上世界に害を為す邪神と決めつけて、倒そうとしているのだ。 強大な力を持つ神が弱い悪人を倒すのは 弱い者いじめになるから駄目で、非力な人間が 強大な力を持つ邪神を倒すのは 弱い者いじめにならないから許されるという理屈は成り立たないだろう。 この聖戦――冥府の王率いる冥界軍と女神アテナ率いる聖闘士たちの戦いを、聖域の者たちは そう呼んでいた――は、ハーデスと人間の生き残りをかけた戦いなのだ。 この戦いの実情は、どちらに正義があるかを決める戦いではなく、もっと単純な構造をしている。 もちろん、互いの生存と滅亡がかかっているという点で、この戦いは重要な意味を持つ戦いではあるのだが。 |