それでも人間は生き延びたいのだと開き直ることもできず、言葉を途切らせた氷河に、瞬が思いがけないことを言ってくる。
「かわいそう……。ハーデスが来たら、僕、地上の人たちに ひどいことはしないでって、頼んでみる」
氷河は最初、瞬が何を言っているのか――誰の事を『かわいそう』と言っているのかが わからなかった。
やがて、その言葉が 地上世界で生きている“悪い人たち”に向けられた言葉だということに気付く。
瞬は人間たちを『かわいそう』だと言っていた。
瞬は、ハーデスの側に立つ者であるはずなのに。
「おまえは、悪人は殺されるべきだとは思わないのか」
「悪い人は、いい人になればいいだけのことでしょう。なれるはずだよ」
事もなげに言ってくれるものである。
なるほど“清らか”とは こういうことなのかと、氷河は感嘆した。
それは、俺のような凡人には到底 思いつけない考え方だ――と。

神に従順か否かということもそうだが、瞬の住む世界、清らかすぎる心、現実より理想に傾きすぎている考え方――は、氷河のそれとは全く異なるものだった。
方向性が逆というより、次元が違う。
瞬は、人間は神に従うべきものだと信じている。
ハーデスを、慈悲心を備えた心優しい よい神だと信じている。
自分以外の人間が無差別に命を奪われる事態は受け入れ難いらしいが、瞬自身は 神の意に従い死ぬこともできる。
瞬は、悪人は善良な人間になればいいと考えている。
だが、氷河の考えは、『悪心を持つ人間にも 生きる権利はある』というものだった。

瞬は、地上の平和と その存続を守るためになら神とも戦うアテナの聖闘士である白鳥座の聖闘士とは相容れない存在。
氷河は、『汚れているから地上から消えろ』と神に命じられても、そんな一方的な命令に従い、従容として死ぬわけにはいかないと考える人間――聖闘士だった。
相容れない二人。
瞬の清らかさを好ましいとは思うが、氷河は、その考えを受け入れることはできなかった。
相手が神でも、戦わずにいられないのが聖闘士。
神に命じられれば、その意に従い死ぬこともできる瞬とは、言ってみれば、住む世界が違うのだ。
氷河は 我知らず、その唇を、自嘲の気味のある笑みで歪めていた。
その笑みを認めた瞬が、首をかしげる。

「僕、何か変なことを言いましたか?」
「あ、いや……。おまえを笑ったんじゃない。そうではなく――地上に、鳥と魚の恋の話があるんだ。鳥と魚は住む世界が違う。鳥は水の中、魚は空。どんなに愛し合っていても、同じ場所には住めない。魚は、愛する鳥の翼をひれに変えたい、鳥の飛ぶ空を泉に変えたいと願う。鳥の方は、愛する魚のうろこが翼に変わればいいのに、魚の泳ぐ泉が空に変わればいいのにと願う。決して結ばれることなく、だが互いに恋い焦がれずにはいられない、鳥と魚の恋の話だ」
なぜ そんな話を思い出したのか。
そして、なぜ それを瞬に語ったのか。
氷河は、その訳が、自分でも よくわかっていなかった。
わかっていないのは瞬も同じらしく、氷河が口にした言葉の意味を、瞬は氷河に尋ねてきた。

「恋?」
「恋という言葉も知らないか」
「知ってる。大好きで、いつも一緒にいたいと思うこと。大好きなのに 一緒にいられない鳥と魚は つらいだろうね」
「ああ、つらいな」
瞬に 頷いてみせてから、氷河は 自分が 心から そう思っていることに――自分が本当に つらさを感じていることに――驚いてしまったのである。
まさか、自分は もう恋に落ちてしまったのかと。
よりにもよって、“住む世界が違う”と実感した途端に、“住む世界が違う”人に――と。

氷河は、自分を惚れっぽい男だと思ったことはなかった。
それ以前に、そもそも 恋をしたことがなかった。
これが そうなのか。
この つらい思いが恋なのだろうか――?
氷河は、そう疑い、しかし、その答えより、恋が どんなものであるのかを、なぜ瞬は知っているのかということの方が気になってしまう。
氷河は、自分の中にある つらさの正体を探るより先に、
「恋がどんなものなのか、おまえは どうして知っているんだ」
と、瞬に尋ねてしまっていた。
瞬が、心許なげな口調で、
「昔、どこかで聞いたことがあるような気がする……」
と答えてくる。
瞬は、ここに連れてこられる以前は、やはり地上にいたのだろう。
そして、そこで、“恋”という言葉を聞いたことがあるに違いなかった。
だが、瞬は、その記憶をハーデスに消されている――。

アテナに頼んで、瞬を地上世界に連れていくことはできないだろうか。
アテナになら そうすることができるのではないかと、氷河は考えたのである。
だが。
ここはハーデスの作った世界。神であるハーデスの力が及んでいる世界。
白鳥座の聖闘士の願いを叶えることは、同じ神であっても――同じ神であるからこそ――アテナにも無理なのかもしれない。
では、人間の力で どうにかならないか――。
氷河は、かなり本気で――もとい、完全に本気で――その術を模索し始めていた。
そこに、瞬の無邪気な声が降ってくる。
「あ、ハーデスが来る」
「なにっ」

どう考えても敵地としか言いようのない場所で、自分は いったい何を夢想していたのか。
瞬の その声で 瞬時に緊張感を取り戻し、素早く 瞬の視線の先を追う。
花園の上の空――否、そこは水だった。
恋し合う鳥と魚が狂喜しそうな、水であり空である空間。
決して結ばれない恋人同士も、そこでなら結ばれることができるのかもしれない。
だが、氷河が生きていたい場所は、そんな非現実的で不思議な場所ではなく、光あふれる地上世界だった。

――花園の空であり、泉の底である場所が、不吉に波立っている。
そこから、ハーデスがやってくるに違いない。
一瞬、ハーデスと相対することを、氷河は考えたのである。
が、すぐに、それは危険だと思い直す。
一介の青銅聖闘士が、たった一人で、アテナの加護もなく相対するには、ハーデスは危険にすぎる相手だった。
氷河は今はまだ、『死んでもいい』という許しをアテナから得ていなかった。
反射的に、氷河は城館の中に飛び込んで、その気配を消したのである。
瞬は――賢い瞬は、氷河の都合と立場を察したらしく、氷河の行動を訝る様子は見せず、逆に(おそらくは氷河の都合と立場を慮って)素知らぬ振りで、冥府の王を迎えてみせた。






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