さて。
その事態を憂いたのは、オリュンポスの神々の神殿に住まう 愛と美の女神だった。
母親への愛も、愛と言えば愛ではあるが、彼女の司る愛は、主に性愛。
一生 恋などしなくても平気の平左、むしろ当然、それこそ高尚――という、氷河王子(以下、称号略)の態度は、愛と美の女神には大いに都合が悪かったのだ。
それは つまり、腕力より、権力より、財力より、知力より――愛の力の前にこそ 人は膝を屈するべきであると信じる愛と美の女神の誇りを傷付けることであったから。

オリュンポスの神々は、誇りを傷付けられることを 何より嫌う。
その際には、思い上がって神の力を軽んじた者に 罰を与え、自らの名誉を回復しなければならない――というのが、オリュンポスの神々の不文律。
愛と美の女神も もちろん、ここは一発 氷河に立ち直るのが不可能なほど重い罰を与え、愛の力の偉大さを内外に示さなければならないと考えた。

そこで、愛と美の女神は、彼女の息子であり、恋を司る神であるエロスを呼んで、愛を軽視している氷河が愛の力の大きさに畏れ入り、愛と美の女神を崇拝するようになる恋を氷河に教えてやるように命じたのである。
なぜ彼女が 自ら行動を起こさなかったのかというと、それは彼女が怠け者のグータラだったからではない。
彼女の息子のエロスは、恋を ないがしろにする輩を懲らしめるのに最適な道具を持っていた。
エロスは、これまでにも、そういった仕事を成し遂げた実績を幾つも持つ、その道のプロだったのである。

ちなみに、エロスの持っている“恋を ないがしろにする輩を懲らしめるのに最適な道具”とは、人の心を操ることのできる2種類の矢だった。
彼の2種類の矢のうち、黄金の矢は その矢に射抜かれれた者が激しい恋情にとりつかれるという力を持ち、鉛の矢は その矢に射抜かれた者が恋を嫌悪するようになるという力を持っていた。
彼が これまでに成し遂げた仕事の中で 最も有名なものは、アポロンとダフネの恋の顛末だろう。
黄金の矢を射られたアポロンと、鉛の矢を射られたダフネ。
アポロンは、ダフネを手に入れるために懸命に彼女を追いかけ、ダフネは 彼の手から 必死に逃げる。
アポロンに捕まりそうになったダフネは、我が身を月桂樹の木に変えることで アポロンの魔手(?)から逃げ切り、アポロンは 恋する人の変わり果てた姿に悲嘆にくれた――という物語。
つまり、愛と美の女神は、決して愛し返されぬ恋に 氷河を苦悩させることで、愛の力を軽んじた報いを氷河に与えようとしたのである。

そういうわけで、恋を司る神エロスの登場である。
エロスは、本来は、成人男性 もしくは若い青年の姿を持つ神なのだが、恋に落ちた人間たちが愚行を繰り返すので、恋の神は無分別な子供であるに違いないと思われるようになり、そのため いつのまにか有翼の子供の姿を有するようになった、アンチエイジングの極みの神。
そして、彼は、常日頃から 暇を持て余している神だった。

彼が 人類すべての色恋沙汰を管理支配しているのなら、彼は年がら年中 四六時中 多忙を極めていただろうが、彼が特段の仕事をしなくても、人間たちは 勝手に惚れたはれたの騒ぎを起こしてくれるのだ。
そして、その恋が うまくいけば、それを 自分の魅力と努力のたまものと考え、うまくいかなければ、それを 恋の神の気まぐれのせいだと決めつけて、エロスに責任転嫁してくる。
そんなことが何百年 何千年と続いたために、今ではエロスは すっかり やさぐれていた。
要するに、恋の神は 自らの仕事への意欲と誠意と責任感を すっかり失ってしまっていたのである。
母である愛と美の女神に 仕事を命じられたエロスは、気乗りせずにヒュペルボレイオスの国に出掛けていき、彼が依頼された仕事を、かなり いい加減に片付けた。
そして、ヒュペルボレイオス国の王宮に赴き、氷河やヒュペルボレイオス国王 並びに ヒュペルボレイオスの国務大臣たちが一堂に会している場で、任務完了の報告をしたのだった。

『氷河王子の胸を黄金の矢で射抜き、その矢と 対になる鉛の矢で、ある人の胸を射抜いた。ただし、鉛の矢は目隠しをして射たので、その矢が誰に当たったのかはかわからない。その相手は、氷河王子が自分で探さなければならない』と。
そして、
「じゃ、そーゆーことで」
と挨拶して(?)、彼の突然の登場と宣言に唖然呆然しているヒュペルボレイオス王国の君主大臣一同を その場に残し、さっさと その場から退散してしまったのだった。

一方的なエロスの話を聞いた時、氷河は、実は、『どうして 俺が、俺を毛嫌いしている相手を探し出さなければならないんだ?』と、素朴な疑問を抱いたのである。
それで 鉛の矢を射られた相手を探し出すことができたとしても、噂に聞くアポロンのように醜態をさらすだけ。
分別のない子供の遊びになど 付き合っていられない――と。
だが、エロスが突然 やってきて2本の矢の報告をしてくれた時、氷河は ちょうど、国王や大臣たちに、そろそろ奥方を迎えてほしいと要請されていた(と言えば 聞こえがいいが、要するに 吊るし上げを食っていた)時だったのだ。

なんでも、氷河が いつまでも妻を迎えないせいで、もしかしたら玉の輿に乗れるかもしれないという夢を捨て切れない国内の女性陣に、他の男性陣との結婚を渋る傾向があるそうで、ヒュペルボレイオス王国の昨年の15歳から25歳までの女性の婚姻率は16パーセント、3年前に比べて26パーセント低下。
そのため出生率も下がっており、現在のヒュペルボレイオス王国全人口に占める0歳から5歳の比率は極端に低くなっている――というのだ。
この世代別人口分布の異常は、いずれヒュペルボレイオス王国に、労働力不足、兵力不足という深刻な問題を生み、国力の低下を招きかねない。
この問題を解決するためにも、氷河王子には早急に奥方を迎えてほしい――というのが、総務大臣と厚生大臣から共同提出された動議だった。
つまり、氷河のせいでヒュペルボレイオス王国の人口が減っているというのである。
たからといって 好きでもない女と結婚なんかできるかと、氷河は(胸中で)毒づいていたところだったのだ。

そういう状況下、せっかく分別のない恋の神が 馬鹿をやらかしてくれたのである。
これを利用しない手はない。
とにかく この吊るし上げから逃れたいの一心で、氷河は、大臣たちに、エロスの射た鉛の矢を受けた人物を探す旅に出ると宣言。
国の運命を左右する大問題の解決策が提案されたというので、大臣たちは 氷河の提案を諸手を挙げて歓迎した。
『自分を嫌っている相手を探し出して、それで王子はどうするつもりなのだろう?』とか『それで我が国の人口問題が解決されるのだろうか?』という疑念を抱く大臣は、その場に一人もいなかった。
氷河は、自国の人口問題よりも その事実の方にこそ、国の未来を憂うことになってしまったのである。

が。
人口問題は 確かに国の未来を左右する重大な問題だが、その重大な問題は王子一人の結婚などという些事で解決はできないし、解決されてはならない――というのが、氷河の(少々 身勝手な)考えだった(ので、その件に関しては、氷河は何も言わなかった)
『鉛の矢を射られた人物を探し出せ』というのは、無分別な子供とはいえ、一応 神の下した命令。
神の命令に従うのは、人間の務めである。
それは、一人の人間が何らかの行動を起こす際の立派な大義名分になった。
その大義名分を振りかざし、氷河は 見事に(?)、自分が単身 旅に出ることを国王 並びに国務大臣たちに認めさせたのである。

とはいえ、氷河は、その旅で、エロスの鉛の矢を射られた人物を探し出すつもりは 全くなかった。
花嫁探しをするつもりは、更に更に ない。
氷河の旅の目的は ただ一つ。
『この世に マーマより美しく優しい人間はいない』という確信を得ること。
愛するマーマの素晴らしさを確かめるため、その価値を高めるため――つまり、自らのマザコン病を深刻化させるため――氷河は、その旅を始めたのだった。






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