そういう経緯で始まった氷河の旅。
何といっても、それは愛するマーマのための旅なので、氷河は(愛するマーマのために)、極めて真面目に、熱心に、積極的かつ効率的かつスピーディにも世界中の国を巡り歩いたのである。
それらの国々で、美女美少女という評判をとっている女性たちが どれほどのものなのか、氷河は じかに自分の目で確かめてまわった。
その中には一国の王女もいたし、ヒュペルボレイオス王室より古い歴史を持つ名門貴族の令嬢もいた。
市井で 国いちばんと噂されている美少女や、修道院で聖女と呼ばれている修道女もいた。
しかし、その結果は推して知るべし。
自分に面会を求めてきた氷河に 彼女等が ぽうっと のぼせあがることはあっても、氷河が彼女等に心を動かされることは ただの一度もなかったのである。

『やはり マーマがいちばん、マーマが最高』と、氷河は 自らの旅の成果に大満足。
地上に存在する80ほどの国の ほとんどを回り尽くした氷河が 次に向かうのは、いよいよ最後の一国。
その国力で 常にヒュペルボレイオス王国と並び称される南の超大国エティオピアだった。

ちなみに、南の超大国といっても、それは、世界の中心とされるオリュンポスから見て南方にあるというだけで、氷河の故国ヒュペルボレイオスと離れた場所にあるわけではない。
国境線の3割がヒュペルボレイオスと接しているほどで、氷河は要するに、まず自国の周辺国を回り、次にエティオピアの周辺国を回り、最後にエティオピア王国に立ち寄って、そのまま帰国――というルートをとるつもりでいたのだった。

その大国エティオピア。
北のヒュペルボレイオスと並び称される南のエティオピア王国は、国土が広く、主な産業は温暖な気候を活かした農業、牧畜業。
世界の食料事情が この国の影響を受けるので、どの国の君主もエティオピアには一目置いていたが、エティオピアは、ヒュペルボレイオスに比べれば素朴な国民性で知られている国だった。
こんなに原始や自然の空気の濃い国に、マーマ以上に美しく優しく高貴な女性がいるはずがないと、胸中 密かに侮って、氷河はエティオピアの国内に足を踏み入れたのである(実際に その国土を踏んだのは、氷河が乗っている馬の足だったが)。

女性の美しさには期待していなかったが、エティオピアは実に美しい国だった。
見事に整備された畑、果樹園、牧草地。
人口は少なくないはずなのに、あまり農夫や牧夫の姿が見えないのは、大規模な農園が相当 効率よく運営されているからなのだろう。
北国のヒュペルボレイオスには望むべくもない多種多様の緑の競演。
豊かで美しい自然の恵みの中を、氷河は心洗われる思いで――もしかしたら、この旅に出て初めて のんびりした気分になって――エティオピアの都に続く道を進んでいったのである。

その途上、都の中にあるのだろう建物の高い尖塔や鐘楼の影が オレンジの木々の彼方に垣間見えるようになった頃――だった。
突然、悲鳴のような、笑声のような、歓声のような、それらのどれとも判別できない声が氷河の耳に飛び込んできたのは。
声のした方に視線を巡らすと、牧草地とおぼしき広い野原で、華奢な少女が巨大な獣に追いかけられている。
全長が 成人男性の5、6倍はありそうな巨体を持つ野獣。
飢えのせいで凶暴になっているのか、獲物の すばしこさに苛立っているのか、その咆哮は ひどく興奮した獣のそれで、にわかに 大神ゼウスの雷が空から大地に投げつけられたかのようだった。
のどかで美しい田園も、凶暴な獣の咆哮に恐れおののいている――ように、氷河には思えたのである。

凶暴な獣に追いかけられている少女は、かなり敏捷だった。
駆ける速さも 並の男では到底 敵わないほどだが、その跳躍力は更に常軌を逸していて、まるで野うさぎのように 自分の身長の何倍もの距離を軽々と跳ぶ。
彼女を追いかけているのが 普通サイズの獅子や狼だったなら、彼女は容易に その爪や牙から逃げおおせていただろう。
しかし、今 彼女を追いかけているのは、巨大な化け物。
彼女が自分の身長の3倍の距離を跳んで逃げても、それは獣の巨体の半分の距離でしかないのだ。
やがて彼女は距離を詰められ、巨大な獣は牙を剥き、鋭い爪を出して、彼女に踊りかかろうとした。

「俺の目の前で人食いなど させてたまるか!」
氷河は すぐさま、剣を抜き、巨大な獣に向かって馬を走らせた。
獣の身体に ぶつかる直前で馬の進路を右に逸らし、獣と すれ違う瞬間に 馬の背から獣の背に飛び移る。
獣の背に着地する勢いを借りて、氷河は 手にしていた剣を獣の背に突き刺した。
だが、何ということだろう。
獣の体毛は針金で、その身体は鋼鉄でできているとでもいうのか、氷河の剣は 獣の身体に(人間の)爪の先ほどの傷を負わせることもできなかったのである。
逆に、氷河の剣の方が刃こぼれを起こす ありさま。

もともと獣の背中に攻撃を仕掛けたのは 獣の注意を少女から逸らすため、それで倒せると考えていたわけではなかった氷河は、手にしていた剣を捨て、素早く獣の背から飛び降り、次の攻撃に移った。
時ならぬ邪魔者の出現に苛立った獣が、氷河を その爪で引き裂くために、右前足を宙に浮かせる。
その隙に獣の腹側に入り込んだ氷河は、獣の心臓めがけて(多分、少し ずれはしたが)渾身の拳を打ち込んだ。
さしも巨大凶暴な獣も、氷河の拳で動きを止める。
その獣は、巨大凶暴であるがゆえに 敵に腹への攻撃を許したことがなかったらしく、獣の腹は背ほどには強靭ではなかったのだ。
氷河が 後方に跳びすさった1秒後、獣の巨体は 力なく大地に崩れ落ちていた。

「エティオピアでは、こんな凶暴な獣が昼間から普通に野を走り回っているのか。物騒で、のんびり散歩もしていられないな」
勝負は数秒でついたが、決して獣が弱かったわけではない。
氷河が長い嘆息を洩らして そう呟いたのは、『倒せてよかった』という安堵の気持ちが大きかったからだったろう。
「怪我はないか?」
九死に一生を得たことで 身体の緊張を保てなくなったのか、緑の草の上に へたりこんでいた少女に、手を差しのべる。
少女は、ゆっくりと、その視線を氷河の方に巡らせてきた。
その顔を見て、氷河は 思わず 息を呑んでしまったのである。

顔は強張り、頬は青ざめていたが、それでも彼女は すこぶるつきの美少女だった。
少なくとも、氷河が故国を出てから 各国で面接面談してきた美女美少女の中では いちばん。
いちばんどころか、誰も足元にも及ばない。
面立ちの可愛らしさも さることながら、その肌の きめこまやかさ、なめらかさ、白さ。
可憐な面差しに ふさわしい調和のとれた 華奢な肢体。
絶妙の細さ 優しさで描かれた、首、肩、腕に続く線。
袖がなく、丈も短い薄布一枚きりの簡素な白い衣装が、誇らしげに、そして 惜しみなく、自分の主の完璧な均整を 氷河に見せつけ、自慢してくる。
何より、その瞳。
今は恐怖が抜けきっていないせいか、少し 怯えているようではあったが、そり瞳の澄んだ様、佇まいは奇跡に近い。
この美少女が 明るく微笑んだなら、どれほど うぬぼれの強い薔薇も蘭もカトレアも、己れの みすぼらしさや傲慢を恥じて 顔を伏せてしまうに違いない。
そう、氷河は確信したのである。

こんな美少女の命の恩人という立場は 悪くない。
実に全く 悪くない――と、氷河は胸中で にやついてしまったのである。
国内に入った途端に、これほどの美少女に出会うことができるとは。
さすがはヒュペルボレイオスと並び称される南の大国エティオピア、侮れない国だと、氷河はエティオピアの国力に(?)感嘆することになったのである。






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