奇跡のような美少女は、氷河が差しのべた手を しばらく ぼんやりと眺めていたが、やがて はっとしたように我にかえると、氷河の手を借りることなく、自分の足で その場に立ちあがった。 そして、命を救ってもらった礼も言わず、獣と彼女の間に立っていた氷河の身体を脇に押しのけて、氷河の拳で倒された獣の首に 飛びついていく。 あげく、あろうことか、その美少女は、巨大な化け物の身体に取りすがり、大粒の涙を零して 泣き出してしまったのである。 「ゴールディちゃん、ゴールディちゃん、大丈夫っ !? ああ、どうして こんなことに……!」 「へ?」 これは いったいどういうことなのだろう。 美少女は、この凶暴な獣に襲われ 逃げ惑っていたのではなかったのか。 なぜ 自分を食おうとしていた人食い獅子(それとも猫なのだろうか?)に、彼女は名前など与えているのか――。 美少女に名を呼ばれた巨大凶暴な獅子猫は、(おそらく 自分が生きていることを知らせて、美少女を安心させるために)酒杯サイズの牙を数十本 剥き出しにして、細い剣のような髭を ぴくぴくと震わせた。 何がどうなっているのか まるで理解できず、その場に突っ立っていることしかできずにいた氷河の存在を、まもなく美少女は思い出してくれたらしい。 彼女は 瞳を涙で潤ませたまま、彼女の命の恩人を 険しい声で責め始めた。 「なんて、ひどいことをするの! ゴールディちゃんが何をしたっていうの!」 「何をしたと言われても……この化け物が 君に襲いかかろうとしていたから――」 「襲いかかるだなんて……。僕とゴールディちゃんは 鬼ごっこをしていただけです!」 「鬼ごっこ? いや、あれは どう見ても、この凶暴な化け物が君を食おうとしていたのだとしか――」 「あなた、どういう目をしているの! そんな ひどい誤解をされるなんて、ゴールディちゃんが かわいそう……。あなた、もしかして、ゴールディちゃんの可愛らしさを妬んで、ゴールディちゃんを亡きものにしようとしたの!」 「な……なにぃ !? 」 いったい何をどうすれば そんな理屈ができあがるのだと、氷河は じっくり彼女を問い質してやりたかったのである。 彼女に論理的な説明を求めても、望むものは得られないような気がしたので、氷河は それは断念したのだが。 「きっと そうだ……。でなかったら、こんなに大人しくて可愛いゴールディちゃんに切りかかったりなんかできるはずがないもの……」 「これの どこが大人しくて可愛いんだ! 見るからに華奢で非力な子供が きゃーきゃー声をあげながら 必死に走ってる姿を見たら、凶暴な獣に襲われかけているんだと、普通、思うだろうが!」 「普通、そんなこと思いません!」 「しかも、こんな凶悪なツラで、牙を剥いて――」 氷河が、巨大な獅子猫の口許を親指で指差して、その面相の凶悪さに言及すると、 「失礼な! ゴールディちゃんは 僕に心配かけないように、優しく健気に微笑んでるんです!」 目がおかしいのはどっちだと問い返したいような答えが返ってくる。 「これでーっ !? 」 思わず問い返してしまった氷河に、非はあるだろうか。 世界中の人間の99.99パーセントは 自分の見解に賛同してくれるだろうと 氷河は思ったのだが、この美少女が その99.99パーセントの中に含まれていないのでは何にもならない。 99.99パーセント外の美少女は、非難の雄叫びをあげた氷河に、むっとした顔を向けてきた。 「だいたい、僕が誰かに襲われるだなんて、そんなことがあるはずないでしょう。この国に 僕を襲うなんてことをする命知らずがいるわけがありません」 「どうして そんなことを自信満々で言えるんだ!」 『いかにも 襲ってくださいと言わんばかりの、その顔と その細腕で』と、氷河が言葉を続けなかったのは、そんなことを言ったら最後、この美少女は、自分を襲うつもりでいたのは氷河の方だったのだと決めつけかねないと思ったからだった。 この美少女の跳躍力は 尋常のものではなかったが、彼女は それ以上に論理を飛躍させることの方を得意としているようだったので、氷河は用心したのである。 美少女は、(彼女にとっては)わかりきったことを訊いてくる氷河に ますます機嫌を損ねたような顔になった。 「だって、僕は、この国では1、2を争うほどの剣の使い手だもの。実際、兄さ――兄以外の人に負けたことは一度もない。弓だって、徒手拳闘だって、それから 鬼ごっこだって、隠れんぼだって!」 「……鬼ごっこに 隠れんぼね。それはすごい」 世にも稀なる この美少女は、いったい どこまで本気で言っているのか。 本気で判断できなかった氷河は、それこそ 本気で困惑することになった。 どこまでも本気で言っているように見えるのが、むしろ恐い。 氷河は、彼女の前で、曖昧な笑いを作ることしかできなかった。 彼女は、その笑いを“ボクを怒らせないために、優しく健気に微笑んでいる”のだとは思ってくれなかったらしい。 彼女は、その可愛らしい顔を更に更に むっとさせた。 「信じられないと思うのなら、それを証明してみせます。僕と勝負しましょう」 「勝負?」 いくら美少女でも、こんなのに付き合ってはいられない――と、氷河は思ったのである。 自称“この国で1、2を争うほどの剣の使い手”の彼女と違って、氷河は 本当に“ヒュペルボレイオスで1、2を争う剣の使い手”だった。 彼女の得意の鼻をへし折るような 大人気ないことはしたくはない。 氷河は、これ以上 彼女の機嫌を損ねないよう、この場から逃げることにしたのである。 「あいにく、俺は忙しい。この国の国王に挨拶をしなければならないんでな」 この国の王を引き合いに出せば、彼女も これ以上 自分の邪魔はできないだろう。 そうなることを期待して、氷河は美少女に そう告げた。 本当は、美しいと評判の姫君がいるのでもない限り、氷河は この国の王に会うつもりなどなかったのだが。 「国王に挨拶……って……」 氷河の期待通り、美少女が 少し 怯んだような素振りを見せる。 「俺は、ヒュペルボレイオス王国の王子だ。名は氷河。俺は重要な任務を帯びて、エティオピアの都の王宮に向かう途中なんだ」 高貴な身分に畏れ入れと鼻高々で、氷河は彼女に 自らの身分を告げた。 ところが。 氷河が、彼女の素振りを“怯んだ”と見たのは、実は とんでもない勘違い。 彼女は 決して氷河の言葉に怯んだのではなく、『重要な任務のためにエティオピアの国王に会いに行く』という氷河の言葉を訝っただけだったのだ。 彼女は、氷河が何者であるのかを知ると、渡りに船とばかりに、氷河に提案してきたのである。 「ちょうどよかった。エティオピア国王は 僕の兄です。城へは 僕がご案内しますから、ゴールディちゃ――ゴールディが歩けるようになるまで、しばらく待っていただけますか。勝負は城でつけましょう」 ――と。 彼女の言葉使いが丁寧になったのは、氷河の身分を知って畏れ入ったからというより、エティオピア王家への客人に礼を尽くすのは エティオピア王家の一員としての務めと考えたからにすぎなかったのだろう。 エティオピア国王が兄だというのなら、彼女の身分は氷河のそれと同列同格なのだ。 「エティオピア国王が おまえの兄? じゃあ、おまえはこの国の王女なのか」 氷河は、自然にして当然、かつ必然の質問を発したつもりだったのだが、それすらも彼女の機嫌を損ねる燃料になってしまうのは、二人の波長が徹底して合わないからか、あるいは 単に間が悪いせいなのか。 一瞬 口許をぴくりと引きつらせてから、彼女は 不機嫌そうに氷河の誤解を正してきた。 「お気の毒に。やっぱり、目が お悪いんですね。僕が王女に見えるなんて。僕は、この国の王子です」 『お気の毒に』と言葉の上では 氷河を哀れんでいるが、その哀れみは100パーセント 怒りでできている。 が、氷河は、そんなことにも気付けないほど――すぐには気付けないほど――彼女の言葉に仰天してしまったのである。 「お……王子…… !? 」 「ええ。瞬といいます。よろしく お見知りおきください」 「瞬……王子……」 言われてみれば、10代半ばの少女にしては、彼女は、胸のあたりが少々ビミョー(?)である。 気付かずにいた自分が迂闊なのか、気付かせない瞬王子(!)が特異なのか。 この状況を生んだ原因は、そのどちらかというのではなく、おそらく両方。 だが、それにしても、この美少女が男子とは。 氷河は、頭を抱えたくなった。 「うわちゃー……」 「その変な声は、どういう意味なのっ !? 」 氷河が思わず あげた声に、瞬が噛みついてくる。 何をしても、この美少女の機嫌を損ねることしかできないらしい我が身の不運を嘆きつつ、これ以上 彼女――改め彼――の機嫌を損ねないために、氷河は その視線を脇に逸らしたのである。 その視線の先では、巨大な化け獅子猫が ぐったりした様子で腹這いになり、“優しく健気に微笑んで”いた。 心臓や肺には さほどのダメージは与えなかったはずなのにと、氷河は、凶暴な獣ではなく この国の王子の可愛いペットだったらしいゴールディの身を案じることになったのである。 もし本当に この化け獅子猫が瞬と鬼ごっこをしていただけだったのなら、氷河は罪のない化け獅子猫に 無体な暴力を働いた悪党ということになるのだ。 「俺は こいつのでかさのせいで目算を誤って、急所を打つことはできなかったんだぞ。でかいのに、見掛けによらず 脆いというか、打たれ弱いというか……。こいつは 今日は体調が悪かったんじゃないのか? 少々 体力と耐久力が足りないようだな。調子が悪いのが今日だけならいいが……」 言い訳を交えつつ、氷河が そう言うと、瞬が にわかに眉を曇らせる。 氷河の推察通り、この化け獅子猫は 本来は もっと凶暴――もとい、もっと屈強頑健なペットであるらしかった。 「ゴールディちゃんは、ベジタリアンで、野菜サラダやフルーツサラダが大好物なの。なのに、最近、オリーブの実が苦手になって……。ドレッシングに使ってるオリーブオイルもよくないのかな……」 「ベジタリアン? こいつが?」 エティオピアは農業国。 野菜や果物の類は 種類も豊富、収穫量も相当あるだろう。 人でも動物でも、野菜を主食にすることは、この国で生きることを容易にする選択肢ではあるのかもしれない。 だが、ゴールディの牙は、どう見ても肉食獣のそれ。 どうすれば、この牙で、この巨体で、ベジタリアンでいられるのか――と、氷河は素朴な疑問を抱くことになったのである。 どうやら、この国の王子の可愛いペットは、かなり特殊な進化を遂げた(あるいは、体質改善を成し遂げた)化け獅子猫であるようだった。 基礎体力はあるらしいゴールディが、自分の足で立ち上がり 歩けるようになったのは、それから まもなく。 瞬は ゴールディに負担をかけないために徒歩で帰城しようとしたようだったが、ゴールディが それは嫌だと駄々をこね(たらしい)、結局 瞬は(いつもの通りに)ゴールディの背に乗ることになった。 氷河が、彼の愛馬に乗って 瞬の案内で城に向かう。 巨大な獅子猫の背に ちょこんと乗っかっている美少女 改め エティオピアの王子。 氷河の目には、その主従の姿は いかにも異様なものに映ったのだが、エティオピアの民は そんな二人(一人と一頭)の姿を見慣れているらしく、エティオピアの都の大通りに入っても、彼等の王子とペットの行進に驚く様子を見せる者はいなかった。 むしろ 氷河と彼の愛馬が その横にいることを、彼等は訝っているようだった。 エティオピアの民の怪訝そうな視線に さらされて、『世間一般的には、俺の方が普通なのに』と思いながら、氷河はエティオピア王国の城に入城することになったのである。 |