“勝負”は、隠れんぼの不戦敗で、氷河の負け。 だが、そう悪い気分ではなく、むしろ楽しい気分で 氷河が部屋に戻ると、中年女性の小間使いが そのタイミングを見計らったように、冷たい飲み物を氷河の許に運んできてくれた。 「素晴らしく可愛いし、剣の腕もたつし、頭もいいのに――この国も大変だな。あんな我儘王子がいては」 氷河は、自分の認識と判断が正しいものかどうかを確かめたくて、彼女に それとなく水を向けてみたのである。 氷河に そう言われた小間使いは、一瞬 きょとんとした顔になり、そうしてから、 「我儘王子――って、誰のことを おっしゃってるんです?」 と、真顔で氷河に問い返してきた。 「もちろん、あの はねっかえりの瞬王子サマのことだ」 “誰のことを おっしゃって”いるのかを氷河が告げると、彼女は それを何かの冗談だと思ったらしい。 困惑したような笑みを浮かべてから、彼女は氷河に二度三度 大きく首を横に振ってみせた。 「何をおっしゃっているんだか……。世界中 探したって、瞬王子様ほど綺麗で賢くて優しい王子様はいらっしゃいませんよ。『八面玲瓏、解語之花、雲心月性、一片氷心、才気煥発、高智高才。ブラコンなのが玉に瑕』というのが、瞬王子様に対するエティオピアの国民の一致した意見です。この城の者は皆――いいえ、エティオピアの民は皆、瞬王子様のことを大好きですよ」 「エティオピアの民が皆?」 この小間使いは、それをエティオピアの全国民に確かめてまわったわけではないだろう。 ゆえに、彼女の言葉の信憑性は薄い。 鸚鵡返しに問い返す氷河の声音には、彼女の言葉への疑いの響きが混じり、その響きを彼女は敏感に感じ取ったようだった。 氷河が なぜそんな疑念を抱くのか全く わからないと言いたげな目を、彼女は氷河に向けてきた。 「ええ、みんなです。瞬王子様を嫌うなんて、そんなのは よほど心の屈折した冷酷な悪党だけですよ。普通の悪党は、瞬王子様に優しく微笑まれたら すぐに心を改めますから。いいえ、よほど心の屈折した冷酷な悪党だって、瞬王子様に諭されたら、善人にならざるを得ないでしょう。だから、やっぱり、エティオピアの民が皆ですよ。みんなが瞬王子様を大好きです」 どう考えても、この小間使いの論理は破綻している。 彼女が エティオピアのすべての国民に 瞬を好きでいるかどうかを確かめてまわることができないように、瞬もまた、エティオピア国内のすべての悪党に“優しく微笑んで”みせることはできない。 そんなことは考えるまでもないこと。 にもかかわらず 彼女は、自分の意見に絶対の自信を抱いているようだった。 「ゴールディだって、瞬王子様に出会う前は、畑や果樹園を荒らしまわる凶暴な害獣として 皆に恐れられ、嫌われてたんですよ。瞬王子様に出会って、瞬王子様に諭されて、可愛がられて、それで すっかり性質が変わってしまったんです。今じゃ、畑仕事や 収穫した果樹の運搬の手伝いをしてくれるっていうんで、ゴールディは国民のアイドルですよ」 「ああ、それで……」 自分はゴールディに襲われていたのではないと、瞬が 向きになって証明しようとしたのには、そういう事情があったらしい。 以前は凶暴な害獣として恐れられていたゴールディが、また凶暴な害獣に戻ってしまったと思われることがないように、ゴールディはもう凶暴な害獣ではないのだという証を立てるため。 凶暴な獣に戻ったら――その可能性があるのではないかという疑いを抱かれたら、ゴールディは、それこそ“処分”されかねない。 瞬は そんな事態になることを恐れていたのだろう。 だから、あれほど必死になって、瞬は氷河の認識を正そうとしていたのだ。 「獣だけじゃありませんよ。この国では、昨年の夏、全く雨が降らなくて、農作物は全滅かと思われていたんです。ところが、瞬王子様が神殿に行って 豊穣の女神に祈ったら、途端に雨が降ってきて――瞬王子様は、神様にも愛されているんです」 「それはまた……」 愛と美の神に憎まれ、罰を与えられている身の氷河としては、耳が痛い話である。 氷河は 思わず 口許を引きつらせてしまった。 ヒュペルボレイオスの王子とは違って、エティオピアの王子は、国民に慕われ、獣にも懐かれ、神にまで愛されている、美しく賢く心優しい王子。 エティオピアのすべての民が 本当に瞬を好きでいるのかどうかは わからないが、国民の9割方は この小間使いと同じ考えでいるのだろう。 そう、氷河は判断した。 小間使いは、自分の大好きな王子様の自慢ができるのが、嬉しくてならないらしい。 その後も彼女は、瞬がどれほど皆に好かれているか、瞬がどれほど心優しい王子であるかを語り続け――語りたいだけ語り尽くしてから やっと、自分の職務を思い出したのか、氷河にごまかすような笑いを投げてきた。 「いやだ、すっかり忘れてた。私は、この部屋のカーテンを替えるためにきたんですよ」 「カーテン? なんでまた」 「いえ、こちらの気候は北の方には お暑いでしょう。日中の陽光を遮っておいた方が、部屋に熱気がこもらなくて、夜 寝苦しくならないだろうと。取り替えるように言われてきたカーテンは特別製で――外側が白くて、部屋側が黒い、厚手のものなんです。外側の白い面が光を反射して、黒い面が光を遮る。普通は もっと陽光が強い季節になってから替えるんですけど……」 「この国には、そんなものがあるのか」 暑さにも寒さにも、常人よりは はるかに耐性があるつもりなのだが、昨夜は へたに寝具が上等すぎたせいで 気温が適温でないことが気になり、氷河は あまりよく眠れなかった。 この お喋りな小間使いは、それを察してくれたらしい。 「それは助かる。気が利くな」 氷河が謝意を伝えると、お喋りな小間使いは とってつけたように勤勉な使用人の顔になり、 「瞬王子様のご指示です」 と言って、(おそらく、氷河にではなく、この場にいない瞬に向かって)恭しい所作で腰を折ってみせた。 「瞬が?」 「ええ。それから、夜は、あちら側の窓を開けておけば、涼しい風が入りますので」 「それも瞬が?」 「はい。それとなく、お伝えしろと」 「……気が利くな……」 お喋りな小間使いから もたらされた 思いがけない情報に、氷河は、芸もなく同じセリフを呟くことしかできなかったのである。 それは、本当に思いがけないことで、氷河には それ以外のリアクションを思いつけなかったのだ。 そんな氷河に、お喋りな小間使いが、自身の不徳を恥じるような素振りを見せる。 「瞬王子様は神経細やかな方なんです。私も見習いたいと思っているんですけど、瞬王子様のようには なかなか」 「瞬が神経細やか……? あ、いや、だとしても、瞬は俺を嫌っているはずなのに……」 てっきり そうなのだと思っていたのに――少なくとも 好意は抱かれていないと思っていただけに、瞬の気遣いは、氷河には意外なものだった。 実は 瞬ほどには気が利かないらしい小間使いが、怪訝そうに首をかしげる。 「そんなことは……。それとも、氷河様は、瞬王子様に何か意地悪なことをなさったんですか?」 「そんなことはしていない……つもりなんだが」 「なら、大丈夫ですよ。瞬王子様は、人を嫌ったりしない方です」 「しかし――」 確かに、瞬の はねっ返り振りには、嫌味なところは 全くなかった。 今になって氷河は、瞬の態度を考え違いしていた自分に気付くことになったのである。 瞬は、ゴールディの立場を守るために それほど必死だったのだ――と。 「もし瞬王子様が氷河様に つれなくしているのなら、案外 それは 逆に瞬王子様が 氷河様を意識しているからなのかもしれませんよ。氷河様は、とても お綺麗ですし……。瞬王子様は、ご自分以外で、こんなに美しい方に会ったのは、おそらく生まれて初めてだったでしょうから」 「まさか」 あれだけ優れた容姿を持つ瞬が、他人の容姿に 心を動かされることなどあるはずがない。 ――と思いはするのだが、もし そうなのであれば、瞬が気に留めるほどの容姿を自分に与えてくれた母に感謝したくなる。 できれば、それをきっかけに、他の美点にも目を向けてほしいとも思う。 自分に そんな美点があるのかどうかということに関しては、氷河自身、その答えを知らなかったのではあるが、ともかく氷河は そう思った。 とはいえ、まさか『おまえは俺を意識しているのか?』と、瞬に訊くわけにもいかない。 訊くわけにはいかないが、訊いてみたい――確かめたい。 だが、どうやって。 氷河の胸に怪しい さざ波を起こしてくれた小間使いが 彼女の仕事を終えて部屋を出ていったことにも気付かずに、その日、氷河はずっと瞬の真意を探る方策を考え続けていた。 |