瞬に避けられ逃げられる日を10日も重ねた頃には、氷河には既に わかっていた。 瞬に無視されることが これほど つらいのは なぜなのか。 瞬の姿を見るたび――その名を耳にするだけでも――春を迎えた冬山の雪や氷が 次から次に大きな音を立てて雪崩落ちるような勢いで、心臓が高鳴り始めるのは なぜなのか。 瞬と目が会うたび、そして、ついと横を向かれてしまうたび、胸が痛むのは なぜなのか。 毎晩 寝苦しくてならないのが、暑さのせいではないこと。 夢の中で瞬に優しくされたあとに 目覚め、明るい朝日の中で見ることになる現実の空しさ、やるせなさ。 これが恋でなかったら、いったい何が恋なのか――と、氷河が考え始めていた頃だった。 忌々しい矢の入った矢筒を肩にかけたエロスが、氷河の前に その姿を現したのは。 エロスが その肩に掛けている矢筒――黄金の矢と鉛の矢が入った矢筒――を見た瞬間、氷河は すべてがわかったような気がしたのである。 「愛の力の偉大さについて、あんたが考えを改めたかどうか確かめてこいって、かーちゃんに言われて、様子を見にきたんだけど――」 エティオピア王宮の庭では、春の花のみならず、ヒュペルボレイオスでは夏にならないと蕾をつけないような花までが既に 花を開いていた。 輝くような命を謳歌している花々で埋もれている、明るい王城の庭。 その明るい花園で、氷河のいる一隅だけが、どんよりと暗く淀んでいる様を不気味に思ったのか、氷河に そう尋ねてくるエロスの顔と態度は、どこか遠慮がちで おどおどしているように見えた。 エロスが陽気に現われようが 陰気に現われようが、そんなことは 今の氷河にはどうでもいいことだったが。 氷河は、エロスとエロスの2種類の矢を視界に入れるなり、恋の神の矢筒の肩紐を掴みあげ、憤怒の表情で、エロスを怒鳴りつけていた。 「この 糞ガキが! おい、おまえは 俺に黄金の矢を射てから、目隠しをして 鉛の矢を射たと言っていたな!」 「え? あ、ああ、そうだった……かな?」 「俺には、俺の胸を射た黄金の矢とやらを見ることはできないが、おまえには それが見えているんだな?」 「ぼ……僕の矢は、人の胸に刺さると、すぐに空気みたいに胸の中に溶けて入り込んじゃうから、目には見えないんだよ。誰の胸に どの矢が入り込んでいるのか、わかるのは僕だけで――」 「おまえに わかれば十分だ。俺は、瞬に会うたび、馬鹿みたいに心臓が高鳴る。だが、瞬は もうずっと俺を無視したままだ。おまえの射た鉛の矢は、瞬の胸に入り込んでいるんじゃないのか? 見てみろ! 確かめろ! おまえの射た鉛の矢が、瞬の胸の中にあるかどうか!」 氷河は そう言って、エロスの目と顔を、ゴールディと一緒に花の中を散策している瞬の方に、力づくで向き直らせた。 そういうことだったのだと、エロスとエロスの矢を見るなり、氷河には ぴんときたのである。 “容姿端麗、眉目秀麗、頭脳明晰、機略縦横、勇猛果敢、剛毅果断、マザコンなのが玉に瑕”なヒュペルボレイオスの王子が、ここまで人に避けられ 嫌われるのには、その人の意思ではない何らかの特別な力が作用しているに違いない――と。 案の定、瞬の姿を見た(無理に見せられた)エロスからの答えは、 「あ、そ……そうみたい。あの人の胸に鉛の矢が刺さってる」 というものだった。 「やっぱり……」 やはり、そうだったらしい。 瞬は、氷河を嫌っているのではない。 エロスの射た鉛の矢によって、瞬は氷河を嫌いにさせられていたのだ。 その事実には尋常ならざる怒りを覚えるが、瞬がヒュペルボレイオスの王子を避ける理由がわかったことは、氷河には喜ばしいことだった。 一つの原因があって、一つの好ましくない状況が生じている。 その好ましくない状況を解消するには、その状況を招いた原因を取り除けばいい。 それで すべては解決するのだから。 「今すぐ、瞬の胸に入り込んでいる鉛の矢を抜け! 俺のは抜かなくてもいいから」 エロスの無責任への怒りと、これで自分は瞬と親しむことができるようになるのだという期待と希望。 その二つの思いが、3:7ほどの割合で混じり合った気持ちで、氷河はエロスに命じたのである。 命じ終えた時、その比率は1:9ほどに変わっていた。 まもなく――まもなく、俺は瞬の笑顔を見ることができる。 もしかしたら、瞬を抱きしめることさえできるかもしれない――。 氷河の胸は、期待と希望で はち切れそうな状態になっていた。 だというのに。 だというのに、エロスは、無慈悲にも、あってはならない返事を氷河に返してきたのである。 「それはできないよ」 「できない? できないとはどういうことだ! 俺は、愛の力に膝を屈する。俺の敗北を認める。愛の力は偉大だ。この世に愛の力ほど強く 価値ある力は存在しない。俺は国に帰ったら すぐに、愛と美の女神のために壮麗な神殿を建てて、愛と美の女神を崇め讃えよう。ヒュペルボレイオスの民にも、そうするよう命じる。俺は、瞬が欲しいんだ!」 「かーちゃんのための神殿を建ててくれるのは嬉しいし、僕も助かるけど……。僕の矢を抜くのはやめた方がいいと思うよ。僕の矢は、無理に抜いたら死んでしまうんだ」 「なにーっ !? 」 この無責任な糞ガキを、いっそ殺してやろうかと、氷河は本気で思ったのである。 愛の力は偉大。 今 自分の中にある愛の力を総動員すれば、不死の神の一柱や二柱、ひと捻りで消滅させられると、氷河は半ば以上本気で思っていた。 だが、愛の力は偉大。 氷河の胸の中にある 瞬への愛の力は、エロスへの憎しみと怒りを、すぐに 取るに足りない ちっぽけなものに変えてしまったのである。 否、エロスに対する氷河の怒りを消し去ったのは、瞬への愛が生む悲しみと絶望だったかもしれない。 瞬の胸に入り込んでしまった鉛の矢を抜くことは不可能。 たとえエロスを脅して その矢を抜かせることができたとしても、それで瞬が死んでしまったのでは何にもならない。 瞬の命は、今の氷河にとって、氷河自身の命より大事なものだった。 それが失われることは、氷河自身の死を意味していた。 瞬には生きていてほしい。 だが、瞬が生きていても、瞬への恋が実らないのであれば、それは やはり氷河には 彼の人生の終わりを意味することで――いずれにしても、氷河は死ぬしかない。 氷河は 今や、それこそ生きる屍も同然の身になってしまっていた。 エロスを掴みあげていた手から力を抜き――もとい、その力は自然に抜けていった――氷河は、無責任極まりない恋の神を解放した。 無責任の上に無力。 恋の神は、たった一人の人間の恋すら実らせることができない。 無力のくせに、その力は強大無比。 恋の神は、たった1本の小さな矢で、一人の人間の中に これほど深く大きな絶望を生ませることができる。 氷河は、幼い子供の姿をした恋の神によって、完全に その人生を終わらせられてしまったのだった。 瞬との恋は決して実らない。 瞬に愛してもらえる時は 永遠にこない。 その事実は、氷河を完膚なきまでに打ちのめした。 これまでも、氷河は瞬に避けられ逃げられることを恐れて、離れた場所から 瞬の姿を見詰めていることしかできずにいた。 だが、そんなふうに 瞬を見詰めている氷河の胸の中には いつも、いつか瞬の頑なな心も溶け、瞬は自分を愛してくれるようになるだろうという希望があったのである。 しかし、今や、その希望は失われてしまった、 希望を持てない状況で、瞬に愛される花になりたいと夢想し、いっそゴールディに成り代わりたいと願うことの苦しさ、つらさ。 氷河は、瞬の手が触れ、瞬の目が見詰める すべてのものへの妬みで気が狂いそうだった。 が、瞬に愛されているものたちを妬む気持ちも、やがては しぼみ――絶望は、そうして 氷河から すべての力を奪いとってしまったのである。 すっかり 生きる気力を失ってしまった氷河が エティオピア王宮を去り――瞬の許を去り――故国に帰ったのは、それから しばらくしてからのこと。 氷河は、日ごとに やつれ衰えていく自分の姿を、瞬に見せたくなかった。 それ以上に、自分の死を、瞬に見せたくはなかったのだ。 恋で人は死ぬものかどうか。 人の心に愛が生まれ、人の世に“恋”という言葉が流布するようになった時からずっと謎だった、その命題。 氷河は今、その命題の答えを手に入れようとしていた。 なんとか故国に帰りついた氷河は、その日から病の床に就き、起き上がることもできなくなってしまったのである。 |