エロスが向かったのは、瞬への恋のために死にかけている氷河の許ではなく、自分が氷河を殺しかけていることに気付いてもいない瞬の許だった。
エティオピア王宮の瞬の許に行き、エロスは これまでの経緯を すべて瞬に打ち明けたのである。
重度のマザコンで 恋愛を蔑んでいる氷河に腹を立てた愛と美の女神が、彼を愛の力に屈服させるよう、彼女の息子に命じたこと。
その命令を遂行するために、自分が、黄金の矢を氷河に、鉛の矢を瞬に射たこと。
そして、氷河が瞬に恋い焦がれるようになったこと。
恋の神の矢は抜くことができない――抜けば死ぬ。
それゆえ 瞬の胸から鉛の矢を抜くことを断念した氷河は、瞬との恋が実らないことに絶望し、生きる気力を失って、今 死の床に就いている。
もしかしたら氷河は、死だけが、実らぬ恋の苦しみを終わらせることができる唯一の方法だと思っているのかもしれない――。
そんなことを、洗いざらい すべて、エロスは瞬に語ってきかせたのである。

エロスの話は、瞬には寝耳に水のことだった。
そして、思ってもいなかったことだった。
なにしろ瞬は、
「鉛の矢? でも、僕、別に氷河が嫌いなわけじゃない……つもりだけど……」
――だったのだ。
特に、氷河がゴールディに謝る姿を見てからは、ゴールディの巨体を考えれば 氷河の誤解は致し方ないこと、にもかかわらず 彼は我儘な異国の王子に付き合って剣術や弓術の勝負に応じてくれたのだと、瞬は氷河の度量の広さに感じ入ってさえいたのである。
そんな氷河に比して、自分の子供じみた振舞いは『見苦しい』の一言。
氷河も さぞや呆れ立腹しているに違いない。
とても まともに顔を会わせられるものではない――
瞬が氷河を避けていたのは、そういう考えのせいであって、瞬は決して氷河を嫌ってなどいなかったのだ。
が、今更 そんなことを 言い訳がましく言い立てても、事態は好転しない。
今は何より 氷河の命を救うことが最優先課題。
瞬は、肩に矢筒を引っかけた小さな子供に、急く心を抑えて 尋ねていったのである。

「その矢の力を無効にする方法はないの? もちろん、死なせる以外でだよ」
この子供が神だということは わかっているのだが、彼が幼い子供の姿をしているせいで、つい子供に語りかける口調になってしまう。
子供の姿をした神は、そんな瞬の前で、縦にとも横にともなく首を振ってみせた。
「黄金の矢と鉛の矢は、滅多に対で使うことはないんだよ。今回と、アポロンの時、他に これまでに数回、同時に射たことがあるくらいで。僕の務めは、本当は、うまくいっていない恋を実らせるか、綺麗に終わらせるかのどっちかなんだ。僕が矢を射なくても、人間は勝手に恋を始めるから」
「そういうものなの? じゃあ、君は、とても親切で優しい神様なんだね。氷河のことも――本当は こんなことになるなんて思っていなかったんでしょう? どうすれば、氷河を死なせずに済むの? 僕に教えて」
「……」

姿は子供でも、中身は既に幾千年の時を生きてきた大人。
瞬が、本心では、『一刻も早く、その方法を教えてほしい』と、気が急いていることはわかっていた。
にもかかわらず、幼い子供を怯えさせることがないよう、優しく穏やかな声音で、辛抱強く、瞬が言葉を紡いでいることも、エロスには わかっていた。
わかっているからこそ。
わかっているからこそ、エロスは言いにくかったのである。
「僕の矢は――黄金の矢も鉛の矢も――どちらの矢も、抜くと死ぬ。僕の矢に射抜かれた者が死ぬ以外で、矢の力が無効になるのは――鉛の矢の場合は、矢のせいで嫌われることになった相手が死んだ時。黄金の矢の方は、矢を射られた人が、恋した相手と一度 結ばれれば、無効になるんだよ」
――とは。

「恋した人と、一度 結ばれる?」
本当に理解できなかったのか、あるいは 理解したくなかったのか。
瞬が、恋の神に、その言葉の意味を問うてくる。
エロスは小さな吐息を洩らしてから、瞬に問われたことに答えを返した。
「うん。恋した人と情熱的な一夜を過ごせば、恋の成就の歓喜が黄金の矢を溶かしちゃうんだよ。そして、黄金の矢は、その後は無効になる。熱烈な恋人たちが結ばれた途端に別れることって、よくあるでしょ?」
「……」

エロスの答えを聞いた瞬が、泣きそうな顔になる。
その様を見て、エロスの胸は ひどく痛んだのである。
瞬には どんな罪もないというのに、たまたま氷河に恋されてしまったために、こんな試練が降りかかってしまったのだ。
それは不運としか言いようがない。
だが、エロスにできることは、矢を溶かす方法を瞬に教えることだけ。
それ以上のことは、何もできないのだ。
たとえ それが恋の神であったとしても。
氷河を生かすか殺すか、氷河の生殺与奪の権を持っているのは、神ではなく、氷河に恋された人間ただ一人だけなのだから。






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