「氷河……」
俺の名を呼ぶ瞬の頬は、生きている者の それとは思えないほど真っ青――いや、真っ白だった。
死の世界で、人の血の気が失せるなんてことがあるんだろうか。
それとも、失せる血も失せるのが死の世界なのか。
いや、そんなことは どうでもいい。
瞬が生きていても 死んでいても、俺は構わないんだ。
それが瞬でさえあれば。

「瞬!」
得体の知れない世界で、死んだ人間のものとは思えないほど弾んだ声で、俺は瞬の名を呼んだ。
俺が一人きりでないことが嬉しい。
瞬がいるなら、他はどうでもいい。
ここが死の世界で、この部屋が大きな棺なのだとしても。
俺は瞬の側に駆け寄ろうとした。
瞬が、そんな俺を、その頬以上に青ざめた声で制止する。
「氷河、なぜあんなことを――」

あんなこと?
“あんなこと”とは何だ。
俺は 何かしたのか?
そのせいで、俺は こんな訳のわからないところにいるのか?
いったい俺は何をしたんだ。
そう 瞬に尋ねようとして――俺は ぎくりと身体を強張らせた。
瞬は一人じゃなかったんだ。
瞬の背後に、一人男がいた。

時の神――サターン。
名を訊かなくてもわかった。
この棺にも似た死の世界――人の気配のない、希望の光のない、こんな世界にいるのは そんな奴くらいのものだ。
つまり、ここは時の神サターンの神殿ということ。
だとしたら――だとしても、なぜ そんなところに俺がいる?
なぜ そんなところに瞬がいるんだ。

瞬が一人でないことが――というより、その場に俺と瞬以外の者がいることが――不快で むっとした俺に、忌々しい時の神は 冷やかな微笑を投げてきた。
そして、言った。
「そなたのおかげで、余は、余の目的を果たすことができた。礼を言う」
「なに……?」
何のことだ。
『俺のおかげ』とは どういう意味だ。
俺は、地上世界を滅ぼそうとする者のために 何かをしてやったというのか?

「そなたの裏切りがなかったら、余は ペガサスに――いや、聖闘士たちに敗れていたかもしれない」
俺が裏切り?
何を言っているんだ、こいつは。
俺がそんなことをするはずがないだろう。
裏切りなんて、そんなことは、生きる意欲がある者が することだ。

サターンの言葉の意味がわからなかった俺は、そういう顔をしたんだろう。
奴は俺に怪訝そうな目を向けてきた。
「記憶が錯綜しているのか? それとも、罪悪感のせいで、そなたは自分のしたことを忘れてしまったのか?」
だから、俺が何をしたっていうんだ。
何をしたのかを忘れたのかと問うてくる時の神に、俺は返事をしなかった。
『忘れた』と正直に答えるのも癪だが、それ以上に、『俺が何をしたのか、教えてくれ』と敵に頼むのは もっと癪だったから。
何も言わずにいる俺に、サターンは親切に教えてくれた。
俺が何をしたのかを、妙に楽しげな様子で。

「あの時――アテナが、生存していた聖闘士たち全員に その小宇宙をペガサスに送るよう命じた時、ただ一人、その命令に従わなかった者がいた。その一人の力の不足がペカサスに敗北を招いた。その者の裏切りがなかったら、余はペガサスに敗れ、地上世界はもとの汚辱まみれのまま、今も存続していただろう」
「……」
あのガキに小宇宙を送らなかった者がいた?
それが俺だと、サターンは言っているのか?

「そなたの思いに、感動した。そして、たった一人の人間の力の大きさも痛感した。そなた一人の力の如何(いかん)で、今の世界のありようは全く違ってしまっていただろう。今の美しく静謐な世界を作ったのは そなただ。これは そなたの功績だ」
サターンは、多分 皮肉のつもりで そんなことを言った。
皮肉というものが、言われた相手を凹ますために作られるものであるなら、サターンの皮肉は その目的を果たさなかったと言っていいだろう。
そんな皮肉を言われても、俺は痛くも痒くもなかったから。
俺を“痛く”したのは、サターンではなく瞬――涙の膜で覆われた瞬の瞳だった。

「氷河、本当なの? 氷河は本当に、あの時、自分の力を光牙に託さなかったの? 光牙に小宇宙を送らなかったの?」
「……」
瞬の瞳は澄んで綺麗で――不遇な幼年時代、打ち続いた戦いの日々、どんな時も、どんな境遇も、 この瞳を汚すことはできなかった。
そんな瞳を持つ、俺にとって唯一の存在、
今も、過去も、おそらく未来にも、俺にとって 唯一 輝いている存在。
瞬の その瞳に見詰められて、俺の記憶は少しずつ明瞭になってきた。


そう――そうだ。
サターンの言う通りのことを、俺はした。
瞬が 自分に残された力のすべてを あのガキに託そうとするのを見て、なぜ瞬がそんなことをしなければならないのかと、俺は憤った。
どうしようもなく、腹が立ったんだ。
「俺は、あんな――戦いに 本当に命をかけることも知らないような、なまぬるい根性をした馬鹿共が気に入らなかったんだ。あんなガキに 運命を委ねたくなかった。俺が 俺の小宇宙をペガサスに送っても送らなくても、大勢は変わらないだろうと思った。その力で、俺は おまえを生かしておきたかった」
「氷河……」

思うに、俺は恵まれすぎていたんだ。
かつての俺は恵まれすぎていた。
一瞬の迷いもなく命を預けることのできる仲間たち。
俺たちとは異なるが、固い信念と力を持った、ある意味では尊敬に値する敵。
最初は敵として相対した黄金聖闘士たちも、その実力と正邪の判断力はさておき、俺よりは よほど生きることに真摯で懸命だった。
何より、希望の光に満ちていた聖域――。
アテナの聖闘士として戦っていた頃、俺は恵まれすぎていたから――輝きを失って薄汚れ、空気さえ淀んでいるような今の聖域と そこにいる聖闘士たちが不快でならなかったんだ。
あんなガキに俺の力を預け、あんなガキに 俺たちの運命を――俺だけなら まだしも、瞬の運命までを――委ねる気には、どうしてもなれなかった。

俺の告白を聞いた瞬が、つらそうに苦しそうに眉根を寄せる。
そして 瞬は、俺を責める代わりに、あのガキ共を庇った。
「氷河から見たら、彼等の戦い方は なまぬるいように見えるかもしれないけど、彼等は彼等なりに一生懸命なんだよ」
ああ、そうだろう。
奴等は一生懸命に、一生懸命になっている振りをしていただろう。
だから、オトナは そんな奴等を優しく見守るべきだとでもいうのか?
冗談じゃない。
他のことなら いざ知らず、あれは おまえの命が かかった戦いだったんだ。

「氷河……」
瞬が切なげに俺を見詰めてくる。
瞬は、すべての人間が時の神の力に屈したというのに、自分が なぜ生きて動けているのか、その訳がわかっているんだろう。
そう。あの時、俺は俺の力を、ペガサスではなく、瞬に送った。
俺に生むことのできる小宇宙をすべて、瞬の許に届けたんだ。
瞬に生きていてほしかったから。
世界より、瞬の方が大切だったから。
薄汚れた聖域より、そこにいる不愉快な聖闘士共より、瞬の方が大事だったから。
瞬だけが、俺にとって価値あるもの、守るに値するものだったから。
瞬以外のものは、ただの屑。
サターンにでも何にでも片付けられてしまった方がいい、鬱陶しい、ただのゴミだ。

「氷河」
俺は、俺の考えていることを言葉にして瞬に告げたりはしなかったが、瞬には それが伝わってしまったんだろう。
俺が そんな考えでいることを悲しんで、瞬の綺麗な瞳が涙を帯びる。
そんな瞬とは対照的に、サターンは上機嫌だった。
自らの勝利を手放しで喜んでいるようではないが、時の神とやらは、俺という人間が面白くてならないらしい。
奴は、他とは少々 毛色の異なるモルモットを自分の手許で飼うことにしたようだった。
「そなたの恋のおかげで、世界は今、美しい静寂に包まれている。そなたの裏切りへの礼に、余は、そなたとアンドロメダの時間だけは止めずにおいてやることにした。この神殿で、二人だけで、幸せに暮らすがよい。そなたの望んだ世界だ」

俺の望んだ世界――。
そうなのかもしれない。
これが俺の望んでいた世界なのかもしれない。
美しい瞬がいて、他の醜悪なものは すべて消え去った世界。
瞬だけがいて、他の邪魔者は誰もいない世界――二人きりの世界。
要するに 俺は、かつて俺が戦った神たちやサターンのように、自分の気に入ったものだけがある世界を望んでいたのか。
綺麗なものだけがある世界を。

しかし、それは瞬の望んでいた世界じゃない。
それ以前に、瞬にとって、はたして俺が――今の俺が――美しいものであるかどうか。
そうであることは、全く期待できない。
俺は 瞬の顔を見るのがつらかった。
その一事だけで わかる。
俺は罪を犯したんだ。
だから、“綺麗な瞬”を見ることができない――瞬を見るのが恐い。

瞬が生きていて、俺が生きていて、俺はそれで十分だ。
だが、瞬は違う。
瞬は、俺がいるだけでは幸福には ならない――なれない。
瞬が幸福でないなら、俺も不幸だ。
今 ここは、俺の望んでいた通りの世界かもしれないが、幸福な世界じゃない。
俺は 俺の望みを叶えたというのに、そのはずなのに――俺は幸福にはなれなかった。






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