サターンは、自分が望んだ通りの世界――自分以外に生きているもののない世界で、何を得ようとしていたんだろう。
そんな世界で、何をして 永劫の時間を やり過ごそうとしていたんだろう。
そんな世界で 自分が幸福になれると思っていたんだろうか。
まあ、神の考えや感覚は、所詮 卑俗な人間にすぎない俺には理解できず、共感できないものなんだろうが。

そのサターンが いずこかに姿を消してしまった棺のような部屋で、俺と瞬は二人きりだった。
瞬の瞳が涙でいっぱいなのが、俺にはわかった。
瞬の顔を 実際に見なくても、俺に注がれる瞬の眼差しが悲しみに満ちていたから。
俺は瞬を悲しませた。
瞬を不幸にした。
俺は、この罪をどうやって償えばいいんだ。
いや、もう罰は受けている。
瞬が悲しんでいる。
これ以上に苛酷な罰は、俺にはない。

だが、罪に対する罰というものは、基本的に、罪を犯した者のために行われるものじゃなく、その罪によって被害を被った者のために行われるものだろう。
俺が犯した罪の被害者は、俺の恋の とばっちりを食って、生きることを中断させられた人間たちか。
そいつらの気持ちを治めるためには――やはり、俺が死ぬしかないか。
実際、それ以外に俺にできることはないしな。
死んで、俺の恋の被害者たちのいる世界に行って、そいつ等から そしりを受けよう。
生きることに比べたら、死ぬことは実に容易だ。
俺自身の意思でどうにでもなる。
そう考えて、俺は目を閉じ、息を止め、俺の身体のすべての細胞に死ぬようにと命じた。

俺が何をしようとしているのか、瞬は すぐに察したらしい。
瞬は、その心身を にわかに緊張させた。
そして、
「だめ!」
と小さく叫んで、俺の身体を揺さぶってきた。
だが 俺は死に向かう行為をやめなかった。
瞬を悲しませるような男は生きていても何にもならない。
瞬に軽蔑され、憎まれ、嫌われながら生き続けることは、俺自身にも つらすぎる。

瞬は――だが、瞬は――それでも俺を死なせたくなかったらしい。
死に向かう俺を、その心を、身体を、瞬の両腕が抱きしめてくる。
俺は驚いた。
てっきり、触れるのも不愉快なほど、俺は瞬に嫌われ蔑まれているものと思っていたから。
瞬は、俺を そこまで嫌ってはいないのか?
そう疑って、俺は 自分の死への歩みを止めたんだ。

我ながら、呆れるほど さもしい。
俺は、自分が世界を滅ぼしたくせに、悪いことをしたとは思っていないんだ。
俺のせいで その時間と幸福を奪われた者たちに悪いことをしたと、俺は思っていない。
瞬を悲しませたことだけが俺の犯した罪だと思っている。
俺が本当に心から悔いているのは、そのことに関してだけなんだ。

「どうして……どうして、そんなことをしたの。氷河はアテナの聖闘士なんだよ。地上の平和と そこに生きる人々の幸福を守ることがアテナの聖闘士の務めなのに」
瞬が初めて はっきりと、悲しげに、俺を責めてくる。
俺は――俺は、本当に勝手な男だ。
瞬の責め方が、俺は気に入らなかった。
俺を責める言葉を、瞬が途切らせたのは、おそらく 自分に注がれている俺の冷やかな視線に気付いたからだったろう。

「俺がアテナの聖闘士でいたのは、おまえがアテナの聖闘士だったからだ。他に理由はない」
瞬がアテナの聖闘士だったから、俺は――俺も、アテナの聖闘士であり続けたんだ。
瞬が地上の平和を望むから、俺も それを望んだ。
俺が本当に、自分から望んでアテナの聖闘士だったことは、多分 一度もない。
おそらく、ただの一瞬もない。

「氷河……?」
瞬は、俺が何を言っているのか、自分が何を言われたのか わからないような目をして、俺を見詰めてきた。
それはそうだろう。
俺は、これまで一度も 自分の本心を瞬に告げたことはなかったから。
言ってはいけない――と、まだ どこかに残っていたらしい俺の理性が、俺を制止してくる。
『自分がアテナの聖闘士であることを否定したら、おまえは もう瞬の仲間でいられなくなるぞ』と。
生きている人間が俺たち二人しかいない世界で、その制止は完全に無意味だったが。

「おまえがアテナの聖闘士だから、俺もアテナの聖闘士でい続けたんだ。おまえ以外の“世界”など どうなってもいいと、俺は 心の底では思っていた。それでも うまくいっていたんだ。ずっとうまくいくと思っていた。おまえが生きていれば。おまえが望むことを俺も望む。おまえの願いが叶うことを、俺は願う。それで 俺はアテナの聖闘士でいることができた。おまえと離れている時も、その考えは変わらなかった。たとえ戦うことはできなくても、おまえがアテナの聖闘士でいるなら、俺もアテナの聖闘士であり続ける。それで、俺たちの絆は消えることはない――と」
逆の見方をすれば、俺たちをつなぐ絆は それしかなかったということだ。
アテナの聖闘士であること。
だから 俺は、アテナの聖闘士で あり続けたんだ。
地上の平和なんて どうでもいいと、心底では思っていたのに。

「だが、あの時――聖闘士の小宇宙をすべて あのガキに集めるよう、アテナから命令された時、それで おまえが死んでしまったら、俺がアテナの聖闘士であり続けることに どんな意味があるのかと、俺は思った」
あの時、瞬は俺の傍らにいた。
こんなに側にいるのに、俺は瞬を救えない――救ってはならないと、アテナは言うのか。
俺の力を瞬のために使うなと、アテナは言うのか。
俺たちを死なせたくないから 戦うなと言って、俺たちを拒んだアテナ。
俺たちが戦えるようになったら、自分の許に馳せ参じる俺たちを 当りまえのような顔で見ていたアテナ。
アテナの立場はわかる。
彼女は地上世界を守るために、戦える者(だけ)が必要だったんだ。
そんな彼女の立場は理解できるが、感情が――俺の感情は、彼女の命令を不快に感じた。

いや、アテナなんかはどうでもいい。
それ以上に、俺は、瞬が死ぬことが嫌だった。
瞬が死ぬのだけは嫌だったんだ。
「俺は……おまえを死なせたくなかった。おまえに生きていてほしかったんだ。おまえさえ 生きていてくれれば、俺も幸福でいられるから」
ただ それだけだった。
瞬が生きていてくれれば、俺は――俺が・・幸福でいられる。

「そうして……これが、今が、氷河の望んだ世界なの」
瞬が、俺に尋ねてくる。
そうであってほしくないと願っている瞳と声で。
そうであるはずがないと信じたがっているのが わかる瞳と声で。
瞬は 本当に俺の気持ちが掴めずにいるようだった。
俺自身 わかっていないんだから、それは当然のことだ。

俺の目の前、手をのばせば届くところに瞬がいる。
瞬は 生きていて、相変わらず美しい。
その瞳も澄んだまま。
そして、俺たちは二人きり。
これは、今は、俺が望んでいた通りの世界。
余計なものは何もない、美しい瞬だけが存在する美しい世界に、今 俺はいる。

だが、違う。
違うことは、馬鹿な俺にも すぐにわかった。
これは、今は、俺の望んだ世界じゃない。
俺の望み通りの世界にいる瞬は、幸福に微笑んでいるはずなんだ。
瞬が幸せで、明るく笑っている世界が、俺の望んだ世界だった。
なのに今、俺の前にいる瞬の瞳は涙でいっぱいで――俺は、こんな瞬を望んだことは、これまで ただの一度だってなかった。
「いや……違う」
低く苦い声で、俺は そう答えるしかなかった。
自分の過ちを認めるしかなかった。

『あなたたちの小宇宙を、光牙へ』
あれから――アテナのあの命令に 俺が背いた時から、どれほどの時間が経ったんだ。
俺は この棺の中で どれほどの間 眠っていた?
その時間を取り戻すことは、もう無理なのか?
時間――過ぎ去った時の長さ。
ここでは、今となっては、そんなことを考えても無意味か。
俺と瞬以外の者の時間は止まっているんだから。
おそらく、時が流れているのは、この棺のような部屋の中だけなんだ。

二人で ここで 幸せに暮らせと、時の神は言っていた。
しかし、それは無理な話。
瞬は、自分が悪いわけではないのに、罪悪感に苛まれ、二度と俺に笑顔を見せてくれないだろう。
俺は、瞬の悲しみだけを見て、不幸なまま生きていくしかない。
俺は 瞬を不幸にした――俺が 瞬を不幸にしたんだ。
地上の人間たちを不幸にすることで、この俺が、瞬を。

「すまん……」
俺が謝ったのは、もちろん、瞬に対して。
そして、俺は、瞬を通して、俺のために時間と希望を失った すべての人間に対して謝った。
俺の良心や罪悪感は、いつも瞬を通して発動する。
瞬が人々に申し訳ないと 罪悪感を覚えているから、俺も 俺の中に同じものを生む。
瞬がいないと、俺は人間らしい気持ちを持てない。
優しさも 思い遣りも 同情も、罪悪感、良心の呵責、もしかしたら 喜びや悲しみすらも。

瞬と離れている間、そういう感情や思惟を持たずに、俺は時を過ごしてきた。
瞬と離れている間、俺の中にあったのは ただ虚無感だけで、俺は その間、孤独感を覚えることさえできずにいた。
その代わり、瞬がいれば、俺は、人間らしい心を持つことができるようになる。
その心で、俺は、俺のせいで時間と希望を失った すべての人間に対して謝罪することもできるんだ。
俺は悪いことをした。
瞬だけでなく、瞬以外の多くの人に。

俺が、俺のせいで時間と希望を失った すべての人に悔悟と謝罪の念を(今になって やっと)抱いたことが わかったのか、瞬は少しだけ 安堵したような微笑を浮かべた。
「僕だけでなく、みんなに謝るだけの判断力はあるんだね。よかった。ここで二人で幸せに暮らしていこうなんて言われたら、どうしようかと思った」
「瞬……」
瞬は そう言って微笑さえ浮かべてみせるが――瞬は なぜ こんな状況で微笑むことができるんだ?
俺が罪の意識を持ち、自分のしたことを後悔しても、人々の 失われた時間と希望を取り戻すことはできないというのに。

困惑する俺に、瞬は再び笑顔をみせた。
それで、俺には わかった――ような気がした。
瞬が微笑むことができるのは、瞬が希望を捨てていないからだということが。
瞬は俺を見詰め、俺に言った。
「氷河。僕たちは希望の闘士だよ。僕たちは諦めない。最後の一人になっても。まして、僕たちは二人なんだから」
「諦めない? サターンに奪われた時間を取り戻すことができるというのか? いったい どうやって……」

俺に注がれる瞬の眼差しは優しかった。
俺を慰め、励ますように。
俺を責めても どうにもならないことは確かな事実――絶望的な現実ではあるが、瞬は俺を責めなかった。
俺は こんなことをしてしまったというのに。
瞬が優しいのは、瞬が微笑することができるのは、希望があるから。
だが、それは本当に あるのか?
希望が?
今の俺たちに?

瞬には見えているらしい希望が、俺の目には見えなかった。
俺の目には見えていなかった――まだ。






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