希望。 希望、希望、希望。 それは どこにあるのかと尋ねるように 瞬の瞳を覗き込んだ俺に、瞬は 不思議に切ない――包み込むような、すがるような、不思議な眼差しを向けてきた。 「百夜をば 一夜にちぢめ、一夜をば、このたまゆらにちぢめたる恋――って知ってる?」 「いや……」 その歌を、俺は知らなかった。 ただ、玉響――たまゆら――という言葉の意味は知っている。 玉のような微かな響き。 とても短い時間のことだと、昔、瞬に教えてもらった。 瞬くほどの短い時間―― 一瞬。 『僕の名前と同じなんだ』と。 サターンが 永遠の時の神なら、瞬は その対極にいる人間なのかもしれない。 そう、俺は思った。 「会えなかった長い時間を この一夜に、この一夜を、二人が見詰め合う この一瞬に凝縮する恋。恋をしている人には そういうことをする力がある。それが恋というものだ……っていう歌」 恋。 瞬の唇から思いがけない言葉が発せられるのに、俺は戸惑った。 それは、俺という男の中核を成す、俺の すべてと言ってしまっていいような言葉だが、こんな状況にある今、持ち出すような言葉じゃないだろう。 それも、よりにもよって瞬が。 瞬がもし 何かの間違いで 俺を熱烈に恋してくれていたのだとしても、それを今 この場で持ち出すのは不謹慎というものだ。 瞬が口にした言葉への戸惑いが大きすぎて、俺は、俺らしくなく、そんなことを考えたんだ。 もちろん 瞬が 今 こんな時に――瞬の大切な地上の平和と そこに生きる人々の命が失われてしまった、この悲しい時に――そんな不料簡なことを言い出すはずはなく、瞬が考えているのは あくまで地上の平和と そこに生きる人々の幸福を取り戻す方法についてだった。 「Ωは 小宇宙の集結、多くの人たちの強い願いの集合体。僕たちは、平和を願う僕たちの思いを すべて光牙に集めて、彼にサターンを倒してもらおうとした」 小宇宙は、平和を願う俺たちの強い思い。 瞬らしい考えだ。 そうなのかもしれないな。 だが、その戦い方を実行するのは もう無理だ。 小宇宙は無限のはずなのに、俺は――おそらく瞬も――ここでは小宇宙を生むことができない。 それは、世界の時が止まっているからなのか? 俺たちが平和を願うべき世界の時が止まっているからなのか、瞬に“願い”を生ませる人々の存在が失われてしまったことが、俺にまで作用しているのか、あるいは、サターンの持つ神の力のせいなのか。 俺は 暗い表情で頭を振りかけたが、瞬は そんな俺を微笑で遮った。 「小宇宙は、僕たちの思いをエネルギーに変える力。その力は ここでは発動できないようだけど、でも、無限の力を持つものは 小宇宙の他にもあるよ。そもそも 僕たちの思いは無限なんだ。その思いが届く時間も無限。僕たちは、遠い過去も、はるかな未来も、この胸の中に思い描くことができる。時の神には、時で対抗しよう。サターンは、人間の一生は有限で、時を支配する自分こそ永遠、最も強いと言っていたけど、人間にだって同じ力がある。人間はただ、時を支配しようとしないだけ。永遠を思う時間が限られているだけなんだ。僕たち人間は、永遠を永遠に思い続けることはできないけど、永遠を一瞬に凝縮することはできる」 また、夢のようなことを。 「そんなことが できるのか? 物理学的に考えて、それは――」 『不可能だ』と言おうとした俺は、その意見を言葉にするのを 直前でやめた。 瞬が言っているのは形而下のことではなく形而上のこと。 瞬が語っているのは、物理学の話ではなく形而上学だ。 案の定、瞬が、 「人の思いは、物理学では語れないよ」 と断言してくる。 確かに恋は理屈じゃないが。 そして、恋は、時間の長さではなく、心の深さ、密度で語られるべきものだと、俺も思うが。 おかしな話だ。 俺は、俺より はるかに対人能力があり 生活力のある瞬を、現実的な人間だと思い、俺みたいに 他人を遮断して生きている男は非現実的な――浮世離れした人間だと思っていたが、どうやら そういうわけでもないらしい。 俺の考え方は重力に囚われ、俺の足は地に縛りつけられ 物理の法則に支配されているのに、瞬は――理想や夢や希望を決して捨てない瞬の考え方は、重力から解き放たれ、物理学の支配を受けていないように自由で奔放だ。 自由な瞬が、俺に小さな苦笑を投げてくる。 「氷河、意外に理屈っぽいね。それでいったら、小宇宙なんて、物理学でどう説明できるの」 まったくだ。 人間の思念思考は 脳の中で起こる物理的な化学反応だなんて、もっともらしい説明はできるのかもしれないが、それが小宇宙という強大な力になることは、物理学では説明しきれない。 「僕たちの無限の時、僕たちの永遠を たまゆらに集めて 一つの力にし、時の神の力を 一瞬だけ凌駕する。僕たちは、僕たちの永遠で作った一瞬で 時の神に打ち勝ち、時の神を支配し、そして 時を戻す」 夢を不可能なことと考えるのは 人生を諦めた老人のすることだと、どこぞの黄金聖闘士に偉そうに言ったのは、どこの誰だったか。 夢のような瞬の言葉。 俺は、だが、人生を諦めた老人じゃない。 ましてや、瞬は。 瞬は いつまでも若く美しく、生気に満ちている。 その胸に いつも、輝くばかりの希望を抱いているから。 「できるよ。僕にはわかる。ねえ、氷河。氷河は、僕がどれだけ氷河のことを思っているか、知ってる? 会えずにいた分、どれだけ強く深く、僕が氷河のことを思っていたか。その力はね、きっと宇宙を壊すことも、新しい宇宙を生むこともできる。人の思いは無限なの。そんなことがあるはずはないって証明しようとして、脳細胞の数や その熱量を計っていたら、命の方が先に終わってしまう。僕たちは、時の神の力を凌駕し、時の流れを あの時に戻す。必ず。それで、僕たちの存在と命が消えてしまったとしても、僕たちは二人だもの。恐いことなんかないよ」 ああ。そうだな。 瞬なら やり遂げるだろう。 瞬なら、夢を叶えるだろう。 瞬が人々の幸福を願う心は、それこそ無限だ。 だが、俺が瞬を思う心も無限。 瞬の願いが叶えばいいと願う俺の気持ちも無限。 おまけに、二人が会えずにいた間、瞬が俺のことを思っていてくれたことを知らされて、俺の喜びも無限。 俺たちに、不可能なことなど あるだろうか。 「わかった。やってみよう」 俺は、瞬の夢物語に付き合うことにした。 それを実現不可能な夢にしないために。 俺と瞬は、今でも希望の闘士だ。 「うん」 俺の決意を受けとめた瞬が、明るく嬉しそうに笑う。 俺の瞬は、本当に美しい。 いつも希望に輝いている――。 瞬が放つ希望の光を受けて、俺は 多分、以前の俺に戻りかけていた。 聖域が 眩しく輝いていた頃。 俺の仲間たちが 前だけを見詰め、未来を信じ、懸命に闘っていた頃。 そんな瞬を見詰め、未来を信じて戦っていた、あの頃の俺に。 だから 俺は調子に乗って、 「その前にキスさせてくれ」 なんてことを、瞬に言うことができたんだ。 瞬が、呆れたように、だが、やはり明るく、そんな俺に自重を促してくる。 以前は よくあったな。 こんなことが。 「もう……。何を寝ぼけたことを言ってるの。僕たち、これで死ぬかもしれない――消えてしまうかもしれないんだよ」 「死ぬかもしれないから」 「二人でなら 死なないよ。サターンから みんなの時間を取り戻したら、その時間の中で 僕にキスして」 優しいのに、厳しい。 瞬は、キスの先渡しも許してくれない。 俺は、鼻先にニンジンをぶら下げられた馬の気分になった。 「失敗できないな」 「そうだよ」 有能な調教師である瞬が、失敗など許さないと言うような視線を、まっすぐ 俺に向けてくる。 そうしてから 瞬は、僅かに その瞼を伏せた。 「あの時――僕たちが戦えなくなって 聖域を出た時――僕、自分の気持ちに正直になって、一緒に来てほしいって、氷河に言えばよかった」 「瞬……」 俺たちは、どうやら、同じ悔いを それぞれの胸の中に抱えていたらしい。ずっと。 だからか。 再会しても、瞬が 以前のように屈託なく俺に近付いてきてくれなかったのは。 二人で、あの切ない追いかけっこをする羽目になったのは。 だが、もう、そんな不毛な追いかけっこは終わりだ。 瞬は、俺を まっすぐに見詰めてくる。 「僕は、僕の過ちを正して、光あふれる世界で、氷河と生き直したい。氷河、僕の願いを叶えて」 俺も、そんな瞬を真正面から まっすぐに見つめ返した。 俺の思い。 俺が生まれる前の時間。 俺が生きている時間。 瞬を愛し続ける時間。 そして俺が死んだあとの時間。 すべて、ここに、この一瞬に。 そして、俺の瞬の願いを叶えてくれ――。 指を絡め、それ以上に視線と心を絡めて、俺たちは祈った。 その祈りが光を生む。 それは眩しい、明るく温かな、俺と瞬と 地上に生きる すべての人々の希望の光だった。 |