「瞬、どこに行くんだ?」 走ることが楽しくてならない若い鹿でさえ 駆け上がるのを躊躇する険しい山道。 その道を、玉が転がり落ちるように軽快な足取りで 駆け登っていく瞬の姿を認め、星矢は尋ねた。 本当は尋ねる必要などなかったのだが。 その道の先にあるものは、ただ一つ。 そして、瞬は、ここのところ毎日 そこに通っている。 それは星矢も知っていたから。 ただそこは、(普通は)瞬に限らず、村の者が喜んで出掛けていくような楽しい場所ではなかったのだ。 「氷室だよ。随分と暖かくなってきたから、様子を見に」 「また誰かと当番を代わったのか」 「うん!」 明るく弾むような瞬の返事。 星矢と紫龍は、幼馴染みの酔狂に呆れ、互いの顔を見合わせることになったのである。 星矢たちの住む村は、ピンドス山脈の北東にある小さな村。 ギリシャの内では比較的寒冷で、山間の狭い平地に 白いハコベの花のように ひっそりと佇んでいる村である。 農業も牧畜も行われてはいるのだが、なにしろ そういったことに向いた土地が狭いため、それは至って ささやかなものだった。 にもかかわらず、彼等の村が豊かで、そこに住む村人たちの生活が 他の村のそれに比べれば格段に恵まれているのは、農業牧畜に向かない寒冷な気候と平地の少なさゆえ。 山の麓にある村の西側に そびえ立つ険しい山の中腹にある氷室のおかげだった。 夏場でも氷が融けない氷室。 星矢たちの村は、そこで保存される氷を ギリシャにある各国の国王や領主に納めて、その代償に、食糧や物品、金銭 及び 各国の保護を受けているのだ。 氷室は、山肌を刳りぬいて作られた冷温貯蔵庫である。 そこに氷や雪を貯蔵して、食料品や氷そのものを保存する。 夏場の氷は贅沢品。 もちろん、元は ただの水なのだが、それは どんな宝石よりも珍重される。 夏季には特に気温が高くなるギリシャの内で寒冷な気候を生む地理的条件が、彼等の村を“恵まれた村”にしているのだった。 それゆえ、氷室は村の生命線。 村の誰もが何らかの形で氷室に関わり、その重要性を子供の頃から厳しく教え込まれる。 氷室に異変がないことを確かめるのは、12歳から18歳までの少年たちの務めで、それは毎日の昼下がりに 持ち回りで行われる決まりになっていた。 氷室に何か異変があれば、それは村の存亡にかかわる一大事になるのだから、その仕事は極めて重要なもの。 それは、怠けたり さぼったりすることは 決して許されない、非常に責任の重い仕事だった。 だが、氷室に異変が起きることは稀で、しかも氷室への道は 鹿も分け入ることを躊躇するほど険しい道。 重要な仕事だということは わかっていても、その当番がまわってくることを喜ぶ子供はいない。 瞬も、以前は、その仕事を、真面目に務めてはいたが 喜んでやっていたわけではない(と、星矢たちは思っていた)。 ところが、最近 瞬は 異様に熱心に その仕事に取り組むようになり、毎日のように仲間たちの当番の代わりを買って出て、氷室に出掛けていくのだ。 星矢も、既に何度も その当番を瞬に代わってもらっていた。 「暖かくなってきたって 言うけどさー……」 村で1、2を争う健脚と敏捷性の持ち主の後ろ姿を見送りながら、星矢が 合点のいかない声を洩らす。 もっとも、彼が合点がいっていないのは、瞬の行動も さることながら、それ以上に、このところの気候の方だった。 春が過ぎ、そろそろ初夏と言っていい時期だというのに、今年は 例年になく寒い日々が続いている。 氷の保存には都合がいいのだが、これでは農作物が 全く育たない。 いくら寒冷な土地柄とはいえ、例年なら この時期には村の畑は豆や葉物野菜の緑色で覆われているのに、今年は雪が消えた頃のまま、黒い地肌を さらしている。 山羊や牛も凍えて乳を出さないと、村の娘たちも不安がっているようだった。 この異常気象はギリシャ全体のことらしいのだが、この辺りは特に気温が低かった。 なにしろ 5月に入ったというのに、未だに毎日 霜が下り続けているのだ。 おかげで、農作物や家畜だけでなく 人間も調子が悪い。 若い者たちはまだしも、体力のない老人たちの中には、寒さのせいで体調を崩し 床に就いてしまっている者も多かった。 さすがに凍死者は出ていないのだが、それも時間の問題なのではないかと、口には出さずに 多くの者たちが案じていたのである。 「村で浮かれているのは瞬だけだぞ」 暑くなりすぎれば、それは氷室の維持に不都合で、毎年 この時期には夏の暑さを案じている村の大人たちも、今年は全く逆のことを案じているというのに、なぜか 瞬だけは表情が明るい。 それは奇妙なことだった。 春も終わりかけているというのに、瞬の好きな花は全く咲く気配を見せない。 体調を崩して寝付いてしまった老人たちに、いつもの瞬なら誰よりも胸を痛めるはず。 実際 話題がその件に及ぶと つらそうな顔を見せるし、村の老人たちの世話も熱心にしているのだが、それでも瞬は――瞬だけが――とにかく明るく元気なのだ。 「瞬は、もしかしたら恋でもしてるんじゃないのか」 「恋? それで、なんで氷室に通い詰めることになるんだよ。あんな、ろくに陽の光も当たらないところにいるのは、間違って迷い込んじまったリスや鳥くらいのもんだろ。人間はおろか、ニンフだって寄りつかない」 恋は一人でできるものではないと反論することで、星矢は紫龍の推察を退けた――そのつもりだった。 そんな星矢に、『普通の人間が寄りつかないところには誰もいないという前提条件が、そもそも間違っている』と、紫龍が指摘してくる。 「そういうところだからこそ 人目につかずに逢引ができる――という考えも成り立つ」 「逢引って、あの清純派の瞬がか? だいいち、なんで人目を避けて こそこそ会わなきゃならないんだよ。俺たちにも秘密で? 教えてくれたら、応援だってするのに」 「おまえに 傍で うるさく応援されたら、まとまるものも まとまらなくなるだろう」 「何か言ったか、紫龍」 星矢に睨まれた紫龍が、それには答えず、肩をすくめる。 そうしてから彼は、少し真面目な顔になった。 「瞬の恋人は、一輝が いい顔をしないような相手なのかもしれない。それで 瞬は誰にも 知られぬようにしているのかもしれん」 「一輝が いい顔をしないかもしれない恋人って、どんなんだよ?」 なぜ ここで瞬の兄の名が出てくるのだと訝って 紫龍に問い返してから数秒後、星矢は一人で その答えに辿り着いていた。 一輝なら それが誰でも いい顔をしないのかもしれない――と、星矢は思ったのである。 「一輝には言いにくいかもなー……」 親を早くに亡くし、自分が親代わりに育てた弟を、一輝は掌中の珠のように溺愛していた。 兄には似ても似つかない可憐な姿。 おそらくは 兄が そう育ってほしいと願った通りに、優しい心を持ち、素直で明るく、それゆえ誰からも好かれる瞬は、一輝の自慢の弟でもあった。 その自慢の弟に 誰よりも敬愛されていることが、更に一輝の自慢。 その最愛の弟に 自分以外に特別な人間ができることを、あの一輝が諸手を挙げて歓迎することは 極めて考えにくい。 しかし、そうであれば なおのこと瞬には応援が必要だろうと考えるのが星矢だった。 「なあ、俺たちは瞬の幼馴染みで友だちだよな?」 「そうだが」 突然、改めて訊かれるまでもないことを訊かれた紫龍が、微かに眉を寄せつつ、彼の幼馴染みで友だちでもある星矢に 頷き返す。 「ガキの頃から ずっと一緒で 気心も知れてるし、親友といってもいい」 「まあ、そうだろうな」 ガキの頃から ずっと一緒で 気心も知れている親友であるがゆえに、ガキの頃から ずっと一緒で 気心も知れている親友が何を考えているのか、察しがつく。 紫龍は、にわかに嫌な予感に襲われた。 そして、案の定。 「なら当然、瞬が変な女に引っかかってないかどうかを確かめてやるのは、俺たちの務めだよな!」 「おい、星矢!」 『なら当然』と星矢は言うが、瞬が懸命に隠そうとしていることを探り出そうとすることは、幼馴染みの義務でも権利でもない。 瞬には瞬の考えがあって そうしているに違いないのだし、瞬の その意思を尊重することこそが、瞬の幼馴染みの務めだろう。 そう言って、紫龍は星矢に自重を促そうとしたのである。 が、残念ながら、紫龍が その作業に取りかかろうとした時には もう、鹿も駆け登るのを躊躇する険しい山道を、星矢は駆け上がり始めてしまっていた。 「星矢! こら、戻れ!」 退屈で変わり映えしない氷室の見回りを、誰よりも嫌がっていた星矢。 義務感ではなく、好奇心に後押しされると、人は どんな面倒事でも進んで行なうものであるらしい。 傾斜がきついだけでなく、曲がりくねった氷室への道。 あっというまに星矢の姿が見えなくなってしまった その道の傍で、紫龍は深い溜め息をついたのだった。 |