「おまえまで ついてこなくてよかったのに」
結局 星矢のあとを追い、氷室の前までやってきた紫龍に、星矢が低い声で告げる。
無鉄砲を絵に描いたような おまえに好き勝手を許したら、それこそ実るはずの恋も空中分解してしまうに決まっている――と、言葉にはせず 表情だけで、紫龍は星矢を たしなめた。
本当は大声で叱りつけたいところだったのだが、あいにく 紫龍は そうすることができなかったである。
彼の推察通り、瞬は一人ではなかったから。

村が管理している氷室は、山の中腹の雑木林の中に隠れるようにある――“建っている”ではなく“ある”。
実際には隠れているのでも 隠しているのもなく、なるべく陽の光が当たらないように、周囲の木々の伐採が禁じられているだけなのだが、氷室が そこにあることを知らない者は、その近くを通りかかっても まず氷室の存在に気付くことはないだろう。
山肌をくり抜いて作られた氷室は、入り口は小屋の体裁をとっているが、要するに洞窟。
氷室の本体は 見た目より はるかに奥行きがあり、見回りの者のための部屋だけが山肌の表面に顔を出している。
氷室の玄関口といっていい小屋には扉も窓もあるのだが、外からは 氷の貯蔵庫部分を見ることはできない造りになっていた。

窓から小屋の中を覗き込むまでもなく、瞬が一人でないことがわかったのは、星矢たちの耳に話し声が聞こえてきたから。
鹿も近寄らず、迷い込んだのでなければ鳥もやってこない氷室の周囲は静かで、窓や扉が閉じられていても、十分に中の会話を聞き取ることができた。

「ここのところの寒さのおかげで、氷は順調だね」
「それはよかった」
ちょうど貯蔵庫の氷の点検を済ませたらしい瞬が、氷室と小屋の間の扉を閉じる音がする。
仕事は終わったのに、瞬は小屋から外に出てこなかった。
瞬の恋人(?)の声を聞いた時点で、瞬が 恋人の存在を 兄にも 幼馴染みの親友たちにも知らせてこない訳が、星矢たちにはわかったのである。
その声は、少女のものではなく、男のものだった。

「農作物や家畜にはよくないんだけど……。みんな、困ってるみたい」
「そうなのか」
「うん。お年寄りには特に この寒さは こたえるみたいで……。一日中 ショールを手離せないって、村のおばあさんが震えながら言ってたよ」
「そうか……」
男の声は沈んでいる。
対照的に瞬の声は明るかった。
「でも、僕はちっとも寒くないの。村では ここが いちばん寒いところなのに、氷河と一緒にいるとあったかいんだ」
「俺も……瞬といると温かい気持ちになる」
「氷河も?」

瞬の(男の)恋人の名は『氷河』というらしい。
瞬のように可愛らしい恋人を手に入れたのなら、もう少し浮かれていてもいいだろうに、瞬の恋人の声には まるで抑揚がなく、むしろ ひどく暗い。
しかし、その暗い声が語った言葉が 瞬には嬉しいものだったらしく、瞬の声は明るさを失わなかった。
星矢が そろそろと小屋の窓の脇に近付いていく。
渋い顔をしながら、結局は紫龍も 星矢と同じことをし、小屋の中を覗き込むことになったのである。
そこには、村では見かけたことのない金髪の男がいて、小屋の中にある石のベンチに腰をおろしていた。
その膝に、瞬が横座りに座っている。
腰掛けるものは他にはないが、大の男が3人 余裕で腰掛けられるベンチに、その座り方。
二人の関係は一目瞭然だった。
しかも、より積極的なのは瞬の方であるらしく、瞬は その腕を しがみつくように恋人の背にまわし、とろけるような目をして 恋人の顔を見詰めていた。

「あー、こりゃ、一輝に知れたら 大変なことになるな。村では見たことのない男だけど……よそから流れてきたのかな」
星矢が、彼にしては抑制のきいた低い声で囁くように そう言ったのは、小屋の中の二人に気付かれないためというより、今 この場にはいない一輝の憤怒を恐れてのことだったかもしれない。
何らかの答えを期待して、星矢は そんなことを言ったわけではなかったのだが、だからといって 紫龍から何の反応も返ってこないのは、当然のことではない。
紫龍からの返事がないことを訝って、星矢は彼の方に視線を巡らせた。
「紫龍、どうかしたのか?」
幼馴染みの秘密を暴くことに乗り気ではないようだった紫龍が、食い入るように小屋の中を見詰めている。
瞬の恋人は 確かに綺麗な男だったが、そんなに熱心に観察することもないだろうにと、星矢は思ったのである。
が、紫龍が熱心に観察していたのは“瞬の(男の)恋人”でも“綺麗な男”でもなく、その男の周囲の様子だったらしい。

「あの男の周り、おかしいぞ」
「周り?」
紫龍に そう言われた星矢が、瞬の恋人本体ではなく、その男の周囲に注意を向ける。
紫龍が言う通り、その男の周囲は おかしかった。
空気が輝いているのだ。
まるで、小屋の中の空気が 極めて小さく軽い宝石を生んでいるように。
空気の中の塵が輝いているのではない。
表現を替えれば、その塵は氷でできていた。
星矢は、細氷 あるいは ダイヤモンドダストという言葉を知らなかったが、もし知っていたら、まさしくそれだと思っていただろう。

しかも、小屋の外では、今朝 下りた霜は さすがに消えていたが、小屋の中には まだ霜が残っている。
小屋の奥にある氷室でならともかく、小屋の中に霜があるのを見るのは、星矢は これが初めてだった。
瞬は温かいと言い、事実 瞬自身は温かさを感じているのだろうが、それは どう考えても、二人が身体を寄せ合っているからである。
そもそも、二人が身体を寄せ合っているのは、小屋の中が寒いせいでもありそうだった。
そうせずにいられないほど、寒いのだ。
風が遮られている分、外よりも暖かいはずの小屋の中の方が。

「氷を守ることを務めにしている村があるなんて、瞬に会うまでは知らなかった」
「氷は夏場は贅沢品なの。あちこちの国の王室に届けてるんだよ。砕いて蜜をかけて食べたり、飲み物を冷やしたりするのに使うんだって」
「届けるのも一苦労だろう」
「うん。村には、氷を運ぶための馬車が5台もあるんだ。アテナイのお城なんて、ここから遠いし、ずっと南の方でしょう。ここから氷を運び出す時は、それこそ大人の男の人の背丈と変わらないくらいの大きさに切り出して運ぶんだけど、アテナイに届く頃には、どんなに急いで運んでも融けちゃって、3分の1くらいの大きさになってるんだって」
「それはまた」
「でも、今年は運ぶのも楽だよ。お陽様が気を遣ってくれてるみたい」
「瞬も氷を運んだりするのか?」
「僕はまだ、氷室の見回りだけ。運ぶのは、もう少し歳のいった男の人たちの役目。3人か4人で組になって運ぶんだ。去年は、僕の兄さんがアテナイの都に行ったんだよ。帰りの馬車は、他のどの国より高価で珍しいものが山積みだった」

瞬は、自分の周囲の(正しくは、自分の恋人の周囲の)異変に気付いていないのだろうか。
恋の炎というものは、そこまで――心だけでなく身体をも熱くするものなのか。
それとも瞬の目には、氷河の姿しか映っていないのか。
二人でいることが ただただ楽しく嬉しく、本当に寒さを感じていないらしい瞬の様子に、星矢は――おそらく紫龍も――驚嘆した。

「そろそろ帰らないと、遊んでいると思われちゃう。僕の本当の仕事は、氷を運ぶ馬車を引く馬たちの世話なんだ。僕の兄さん、怒ると恐いの」
どれほどの時間、二人は 二人で 他愛ない話をしていたか。
やがて、瞬は 寄り添っていた氷河から(やっと)離れる気になったようだった。
氷河が、そんな瞬の手を捉え、相変わらず 嬉しくなさそうな暗い声で、瞬に約束を求める。
「瞬。明日もまた」
「うん。みんな、氷室確認の当番は面倒がるから、代わってあげるって言うと喜ぶんだ」

笑顔の瞬。
無表情といっていい氷河。
氷河は無表情のまま、その顔を傾けて、瞬の唇に 自分の唇を重ねた。
それは、たった今まで 互いの身体を密着させ合っていた二人にしては軽すぎる、触れ合うだけのキスだったのだが、瞬は頬を上気させ、恥ずかしそうに僅かに瞼を伏せた。
「明日も、ここで。きっと」
「うん」
ここで明日も会うという約束は成立したのに、しばしの別れが つらいのか、瞬が小屋の扉を開けるまでには かなりの時間があった。
その間に、星矢たちが、小屋の窓の横から 雑木林の中に移動する。

「気をつけて、帰れ」
氷室に やってくる時には 若鹿よりも軽快だった瞬の足取りが、帰りは 人間の老人のそれのように遅く、重い。
小屋の扉の前で、村に帰っていく瞬を見詰める氷河の目は 切なげで、名残り惜しげで、瞬の姿が見えなくなっても、彼はずっと その方向に視線を向けたままだった。
瞬と見詰め合っていた時には 冷たい無表情にも見えていたのに、瞬と目が合っていない時には よほど恋する男に ふさわしい表情を浮かべる瞬の恋人。
彼は、もしかしたら かなり不器用な男なのかもしれない。
だが、そんな男であればこそ、彼が真剣に瞬を思っていることは事実なのだろうと、星矢は思ったのである。

氷河と呼ばれていた男が、小屋の中に戻り、小屋から氷室に つながる扉を開け、奥の方に向かって その手をかざす。
氷河の手が冷気を生んでいるのは、もはや疑うべくもない事実だった。
氷室の中だけでなく、小屋の外にいる星矢たちにも、周囲の気温の急激な降下が感じ取れるほど、その冷気――むしろ凍気――は 強力なもの。
瞬の恋人は、どう考えても、普通の人間ではなかった。
瞬の幼馴染みの親友としても、この村の住人としても、これは 黙って見過ごすことのできない事態である。
星矢は 後先考えず、紫龍は 向後のことを憂えて、扉を開け、小屋の中に飛び込んで行ったのである。
「おい! おまえは いったい何者なんだよ!」

星矢の怒声じみた誰何すいかに、だが、答えは返ってこなかった。
星矢たちが小屋の中に踏み込んでいった時、そこには、星矢の怒声に驚くはずの男の姿がなかったのである。
小屋には、外に出られる扉は一つしかなく、その扉は瞬の幼馴染みたちが開けたばかり。
氷河が小屋を出ていくことは不可能である。
氷河が氷室の奥に入っていった気配はなかったし、実際に星矢たちは氷室の中を確認したのだが、そこには誰の姿もなかった。
瞬の恋人の姿は、忽然と消えてしまっていた。






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