これは いったいどういうことなのか。
なぜ、どうやって、瞬の恋人は忽然と姿を消してしまったのか。
あの男が人間でないのなら、それは さほど不思議なことではないのかもしれないが、人間でないとしたら、彼は何者で、瞬や人間界に害を為す者なのか、益をもたらす者なのか――。
氷室を出た星矢と紫龍が 暗い気分で村への道を下り始めたのは、人間と人間でないものの恋が 順調に進展し、幸福な結末を迎えることがあるとは思えなかったからだった。
彼等は、そんな話を聞いたことがなかったのだ。

それが神であれ、ニンフであれ、半獣であれ、半神であれ、あるいは異世界からやってきたものであれ、そういった存在と人間の恋が“めでたしめでたし”で終わった話を、彼等は聞いたことがなかった――不幸な結末を迎えた話しか聞いたことがなかった。
そういう者たちと人間とでは 価値観や寿命が違うという問題もあるだろうが、それ以前に、瞬を見詰めている時の氷河の表情の暗さが、この恋が幸福なものになる予感を、どうしても二人に感じさせてくれなかったのだ。
瞬の恋人は、それが わかっているからこそ、恋人と共にいても あれほど陰鬱な目をしていたのだとしか、星矢たちには思えなかったのである。

「あの氷河とかって男、どう考えても人間じゃないよな。いったい何者なんだ」
「まさかとは思うが、冥界からの使者なのではないか」
「冥界?」
「陽光の射さない冥界は、エリシオンの野以外は寒いところで、冥府の王の使いは皆、冷たい肌をしているんだそうだ。もしかしたら、このところの寒さは あの男が地上に来ているからなのかもしれない」
「……」
よりにもよって冥界からの使者とは。
紫龍が なぜそんな推察をすることになったのか、星矢には まるで得心がいかなかった。
あんなに暗い目をした男が、栄光あるオリュンポスの神々の一柱であるとは考えにくかったが、だからといって 突然 死の国に話が飛ぶのは、発想が突飛すぎるというものである。

「ちょっと待てよ。それじゃあ、何か? 冥界からの使者が瞬の命を取りに来て、瞬に惚れて、冥界に帰れなくなったとでも、おまえは言うのか」
「冥界に関係しない者で、寒さ冷たさを生む力を持つ者は 北風の神ボレアスくらいのものだろう。しかし、今は西風の季節。ボレアスは既に北の神殿に引っ込んでいるはずだ」
そう言われてみると、紫龍の推察も全く根拠のないものではないような気がしてくる。
紫龍の言う通りなのである。
少なくとも このギリシャでは、寒さ冷たさに由来する人間以外の者は 死に関わる者しかいないのだ。

「じゃあ、放っておいたら、瞬は冥界に連れていかれちまうのか?」
「かもしれない」
「どうにかできないのかよ!」
「死は運命だ。運命の女神たちが決めたことに 人間は逆らうことはできない」
「でも、瞬は死ぬには早すぎるだろ。何にも悪いことしてないし」
「死ぬのは悪人とは限らないだろう」
「それはそうだけど、瞬は生きてるべきだろ」
「生きているべき・・……とは」
「だから、瞬は若くて健康だし、綺麗だし、親切で優しいし、みんなが瞬を好きだし、瞬が死ぬ理由は ひとっつもないってことだよ!」
「そうは言ってもな……」

親切で優しく 皆に好かれているから、生きているべきである――死ぬべきではない。
そんな理屈が成り立つのなら、死を厭う人間は(大抵の人間は そうだろう)、誰もが親切で優しい人間になろうとし、この人間の世界は さぞかし善良な者たちで満ちあふれた楽園になることだろう。
だが、現実には、瞬のような人間は極めて稀。
大部分の人間は 欲を持ち、楽をしたがり、他人よりは自分の方を大事に思っている。
星矢の主張は、現実に即したものとは言い難かった。
そもそも人間というものは、“生きているべきもの”ではなく“死すべきもの”なのだ。
神にもできない“死ぬ”という行為をするからこそ、人間は人間であり得るのである。

「俺が言っているのは、そういうことではなく――」
同じ人間同士でさえ――しかも、気心の知れた幼馴染みの親友同士であっても――これほど話が通じないのだ。
まして、人間と人間外の二人では。
紫龍は溜め息を禁じ得なかった。
そんな紫龍の溜め息が気に入らなかったのか、星矢が紫龍に噛みついてくる。
「なんだよ、その溜め息は! おまえは、瞬が死んだ方がいいってのかよ!」
「そんなわけがあるか!」
「だろ !? なら、やっぱり瞬は生きてるべきだよな! 冥界の使者って、追い返すことはできないのか?」
「……」

同じ人間同士だというのに、本当に話が通じない。
紫龍は、願望と現実の区別がついていないような星矢を説得することを 早々に諦めた。
どれほど親切で優しく皆に好かれていたとしても、人間は死すべきものである――という現実は変えられない。
が、紫龍とて、瞬には死んでほしくなかった――できる限り生きていてほしい。
紫龍も、今は・・、瞬を死なせずに済む方法こそを考えたかったのである。

「そういう前例がないわけではないが」
「追い返す方法があるのかっ !? 」
気心の知れた幼馴染みの親友の言葉に、星矢が色めき立つ。
紫龍は、そんな星矢に 縦にとも横にともなく首を振ってみせた。
「テッサリアのシーシュポスは、ハーデスの命令で彼を冥界に連れていこうとした死の神タナトスを騙して、冥界の道具である手枷で彼を捕え、死を免れたと言われている。シーシュポスは奸智に長けた男で、そのせいでゼウスの恨みを買うようなことをしたために、今は冥界で罰を受けているらしいが」
「へえ。死の神って、結構 阿呆なんだな。同じ手に引っかかってくれるほど、冥界の使いが馬鹿だといいんだけど……」
それは、しかし、あまり期待できそうにない。
もし冥界の使いが そこまで学習能力に不自由している馬鹿者揃いなら、地上世界には、死を免れた人間の逸話があふれているはず。
だが、星矢は、そういう話は 寡聞にして聞いたことがなかった。

「他にはないのか? 冥界の使者を追い返す手」
「そうだな。シーシュポス以外だと――ペライ王アドメートスの例があるな。アドメートスの妻アルケスティスは、死の運命にある夫を死なせないために、夫の代わりに自分が冥界に行ったんだが、妻の死を悲しむアドメートスを見兼ねた友人のヘラクレスがタナトスを倒して、アルケスティスを取り戻したと言われている」
「なんだ。冥界の使者って、戦って負かせば 追い返せるのかよ!」
「事は、そう簡単に運ぶまい。ヘラクレスは、大神ゼウスの血を引く半神半人だから、そんなこともできたわけで――」
「じゃあ、おまえは、瞬が冥界に連れていかれるのを、手をこまねいて 黙って見てろってのか? んなことできるか! わかった、おまえの手は借りねーよ! 冥界の使いは、俺が一人で戦って追い返す!」
「……」

瞬を失いたくない気持ちが強すぎて、星矢には まるで理が通じなくなってしまっている。
紫龍とて、瞬には生きていてほしいのだ。
だが、死は、人間に抗しきれる力ではない。
叶えたい望みと 叶えられない現実の間で生きている同じ人間だというのに、至る結論が なぜここまで違うのか。
紫龍は、“死”と戦う意欲 満々の星矢を見て、二度目の溜め息をついたのである。






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