「おまえまで ついてこなくてよかったのに」 翌日、中に 瞬と瞬の恋人がいることを確認し 突撃態勢を整えた星矢は、彼の隣りにいる 気心の知れた幼馴染みの親友に、昨日と全く同じセリフを投げかけた。 嬉しそうに そう言う気心の知れた幼馴染みの親友に、紫龍は――紫龍もまた――昨日と全く同じように溜め息をつくことになったのである。 放っておけるわけがないではないか。 後先を考えず無鉄砲ばかりする星矢に 単独行動を許したら、最悪の場合、紫龍は、気心の知れた幼馴染みの親友を二人、同時に失うことにもなりかねないのだ。 「んじゃ、さっさと行くぞ。二人が いちゃつき始めてから飛び込んでったら、俺たち、とんでもない野暮天になっちまうからな」 そういうことには気がまわる星矢に 感心するべきか、呆れるべきか。 紫龍が その二者択一の結論を出す前に、星矢は氷室の小屋の扉に突進していた。 星矢に ひと呼吸遅れて駆け出した紫龍が 氷室の中に足を踏み入れた時には既に、星矢は さほど広くない小屋の中に大音声を響き渡らせていたのである。 「瞬、そいつから離れろ! そいつは冥界からの使者だ!」 「せ……星矢…… !? 」 突然 闖入してきた幼馴染みの言葉というより 剣幕に驚いて、瞬が瞳を見開く。 星矢は、氷河の隣りに立っていた瞬の腕を掴み、自分の方に引き寄せて、瞬と 瞬の恋人を弾劾し始めた。 「目を覚まして、周りを見ろ! おまえは こいつの顔しか見てないから気付いてないんだろうが、ここんところの異様な寒さは、全部 この男のせいだぞ! こいつの周りでは、空気も寒さで凍りついてる。氷室の氷だけ冷やしてくれるんなら 有難いだけだけど、こいつは何もかもを凍りつかせている。山も畑も家畜も、村も――いや、ギリシャ中を! おかげで、春は どっかに追いやられて、ジャガイモは芽を出さないし、山羊は乳を出さない。こいつに早々に冥界に お引き取りいただかないと、命を落とすのは おまえだけじゃ済まなくなる。もちろん、こいつには おまえも渡すわけにはいかないけどな。冥界の使者には、一人で、手ぶらで、冥界に帰ってもらうぞ!」 一気呵成に、星矢が彼の闖入の理由と目的を怒鳴ってのける。 瞬は、星矢は何を言っているのかと戸惑い、そして、星矢の怒声で氷河が気分を害することを恐れたようだった。 「星矢……なに言ってるの……。そんなの誤解だよ。氷河は、北の国から、南の方でしか育たない薬草を採集にきた、お医者さんなの。それで、この小屋に寝泊まりしながら、この山の薬草を見てまわってるんだよ。勝手に この小屋を使っていいって言ったのは僕だし、それは 悪かったと思うけど、氷河は何も悪くは――氷河……?」 懸命に幼馴染みの誤解を解こうとしている瞬を見おろす氷河の顔が、不自然に強張っている。 そのことに気付き、瞬は言葉を途切らせた。 瞬自身は嘘を言っているつもりはないのだろうが、それは事実とは異なることだったのだろう。 氷河の表情の強張りは、結果的に自分が瞬に嘘をつかせている状況が、彼にとって不本意極まりないものだったから――のようだった。 「瞬、すまない。俺は、おまえに そんなことを言わせるつもりは――」 自分に怒りを感じている様子で、氷河が 拳を握り、唇を噛みしめる。 瞬は、それで おおよそのことを察したらしく――切なげな目で、氷河の瞳を見詰め返した。 「氷河は……本当に僕を連れに来た冥界の使者なの?」 「違う。俺はハーデスの使いなんかではない」 「なら、何者なんだよ!」 泣きそうになっている瞬の代わりに、星矢が氷河に大声で尋ね返す。 星矢への氷河の答えは、 「俺は 氷雪の神だ」 というものだった。 「氷雪の神? オリュンポスに そんな神がいるという話は聞いたことがないが……」 紫龍が、すかさず疑念を挟む。 氷河は、一度 その視線を床に落とし、やがて覚悟を決めたように、再び その顔をあげた。 「俺は、オリュンポスの大神ゼウスと 北の異郷の女神との間に生まれた。母は異郷の神に汚されたというので、北の国の主神に 存在を消され、俺は北の国を追い出されて、ギリシャにやって来たんだ。ゼウスの妻ヘラに憎まれて、オリュンポスの神々の一員として認められてはいないが、人間には持ち得ない力を持ち、死ぬことがないという意味で、俺は神だ。だが、冥界とは どんな関わりもない。関わりがあったとしても、俺に瞬の命を奪うことなどできるわけがない」 「氷河……」 瞬は本当に 氷河の様子が尋常の人間とは違うことに気付いていなかったのか、あるいは、気付いてはいたが、恋人の言葉を疑うわけにはいかないと思っていたのか。 星矢には、その判断はできなかった。 星矢に わかったことは、瞬が驚きと共に抱いている感情が、氷河に嘘をつかれていたことへの憤りではなく、氷河の不遇への同傷心だということだけだった。 氷河は、自分が瞬に嘘をついていた事実にこそ、罪悪感を抱いているようだったが。 「俺はずっと――天上界の片隅に、一人で、何をするでもなく、ただ存在していた。暖かいギリシャで俺が力を使っても 誰も喜ばず、誰からも恨まれるだけだと わかっていたから。ある日、地上に何か輝くものがあることに気付いて、地上に下りてきたら、そこに瞬がいて、俺は――」 そして、彼は恋に落ちたというのか。 「それは、なんつーか……」 「ありそうなことだ」 氷河の語る彼の物語は、一から十まで、実に“ありそう”なことだった。 ギリシャの大神ゼウスは、浮気と好色で有名な神。 神と人間の区別なく、男と女の区別もなく、自分の気に入った者には見境なく手を出して騒ぎを起こし、その相手を ほぼ全員 不幸にしている神である。 母を失い、自分の存在意義を感じることもできない孤独な男が、瞬に出会い、その優しさ温かさに触れ、恋に落ちるのも――実に実に ありそうなことだった。 陳腐すぎ、自然すぎて、星矢は――紫龍も――氷河の言を疑うことができなかったのである。 「冥界の使いじゃなかったのか……」 星矢の呟きに、氷河が浅く頷く。 「俺が地上世界に長くいると、ろくなことにならないことはかっている。本当は、瞬を天上に さらっていきたかった。だが、それでは、俺は あの迷惑千万な父親と同じことをすることになる。瞬には 家族や友人がいて、瞬は その者たちを大切に思っているようだった。その者たちと瞬を引き離せば、俺は瞬に寂しい思いをさせることになる。だが、俺が瞬から離れれば、俺自身が寂しい――」 「……」 氷河は、神にしては傲慢なところがなく、瞬の気持ちや立場を気遣うこともできる男のようだった。 しかし、星矢は、彼に同情はしても、彼の望みに理解を示してやることはできなかったのである。 「てめーが瞬を好きな気持ちはわかるけど、だからって、瞬を天上界になんか連れていかれて たまるか! 瞬は俺たちの大事な仲間だ。村の者たちは みんな、瞬が好きだし、瞬の兄貴は、もし誰かに瞬を奪われたら、連れ去られた先が天上界だろうが冥界だろうが、怒髪天を衝いて 瞬を取り戻しに行くぞ」 「うむ。冥界の使いでなかったとしても、結局 同じようなものだ。貴公が地上にいるせいで、いつまで経っても地上は暖かくならない。農作物は実らず、家畜は凍え、人死にさえ出そうな勢いだ。直接 寒さが原因で死ぬことはなくても、このままでは、寒さが原因の食糧不足のせいで多くの死者が出ることは確実。瞬を思う貴公の気持ちはわかるが、地上のため、そこに生きる多くの人間のため、できれば貴公には 少しでも早く天上界に帰ってもらいたい」 人間が神に意見することは、不敬にして不遜の極み。 それがわかっていても、星矢と紫龍は 氷雪の神に訴えないわけにはいかなかったのである。 このままでは、地上は、冥界からの使者を大量に迎えるのと大差ない惨状を呈することになるだろう。 氷河の恋のために。 氷河は、自分から母を奪った大神を蔑み憎んでさえいるようだったが、今 この状況が続けば、結局 彼は 彼の嫌いな父親と同じように不幸な人間を生むことになるのだから。 否、彼の恋は、彼の父親の行為以上の悪行といっていいだろう。 彼の恋が不幸にするのは たった一人の女ではなく、地上に生きる多くの人間なのだ。 そして、その行為は 今現在 既に恵まれたものではないらしいオリュンポスでの彼の立場を、更に肩身の狭いものにすることになるかもしれない。 彼の恋は、多くの人間だけでなく、彼自身をも不幸にするものなのだ。 彼の恋は、誰も幸福にできない恋――誰にも不幸を もたらす恋なのである。 氷河も、それは わかっているのだろう。 だから彼は、瞬と一緒にいても、いつも暗い顔をしていたのだ。 星矢と紫龍の言葉を聞いた氷河の顔が、更に暗くなる。 そこに、不幸な恋人に追い打ちをかけるように、新たな登場人物が現われた。 |