「そうなのよね。氷河、あなた、今すぐ天上界に帰ってちょうだい。あなたのせいで、オリュンポスで ちょっと――いいえ、大いに まずい騒ぎが起きているのよ」
「アテナ……」
ギリシャの片隅にある、ごく小さな村。
村人の他に知る者とてない古い氷室。
村人にとっては、それは極めて重要な施設なのだが、村人以外の人間にとっては――まして、神には――それは ただの おんぼろ小屋である。
そこに突然 登場した、まばゆいばかりの光に包まれた一人の若い女性――女神。
氷河が その姿を認めて 口にした名に、星矢と紫龍は仰天してしまったのである。

知恵と戦いの女神アテナ。
それは、オリュンポス十二神の中でも傑出した女神の名。
彼女は、こんな古ぼけた小屋に迎えるには偉大すぎる女神だった。
その偉大な女神が、驚き あっけにとられている星矢と紫龍に視線を投げ、そんな二人の間で 切なげな目をしている瞬を 気の毒そうに見詰め――最後に、彼女は氷雪の神の方へと向き直った。

「氷河。あなたが地上にいるせいで、凍死者が数多く出ているの。すべて、本当はまだ死ぬべきではなかった人間たちよ。冥界では、すぐに彼等を追い返しているから、今のところは 彼等の死を人間たちに気付かれずにいるのだけれど、冥界では、死すべき人間と あなたのせいで冥界に来てしまった死すべきではない者たちを区別して 追い返す仕事の大量発生で大混乱。そんな状況に ハーデスが腹を立てて、あなたの恋を終わらせるために、瞬を冥界の住人にしてしまうよう、大神に申し出てきたの。今の状況が続けば、大神は、ハーデスの怒りを鎮めるため、地上と冥界の混乱を治めるため、ハーデスの願いを聞き入れなければならなくなるでしょう。このまま あなたが地上にいれば、瞬は その運命を変えられて、その死の時を早められてしまうわ。まあ、ハーデスの狙いは、冥府や地上の混乱を治めることではなく、どうやら瞬自身のようなのだけど。冥界の者たちが 真実の死者と偽の死者の整理に忙殺されているといっても、彼自身が実際に その仕事をしているわけではないのだから」

「瞬を死なせたりなどさせるものか!」
氷河は、アテナに向かって(正しくは、この場にいない冥府の王ハーデスに向かって)激昂した。
そんな氷河とは対照的に、アテナの声は落ち着いている。
「ならば、瞬を冥界の住人にする大義名分をハーデスに与えないためにも、今すぐ 天上界に帰ってちょうだい」
「それは……」
「ハーデスは、妙に瞬に執着しているようなの。彼は なぜか瞬を我が物にしたがっている。ハーデスが何を企んでいるか わからないから、あなたには早急に天上界に帰るようにと、大神からのご命令。あなたの恋のせいで、世界がおかしくなっているわ。このままでは、大神は、瞬の死だけでなく、あなたの抹殺をも考えなければならなくなる」
「このままでは? あの男とオリュンポスは、もともと俺の存在を消し去りたがっていたはずだ。奴等にとっては、願ったり叶ったりの状況じゃないか。あれこれ 理屈を並べ立てたりせず、さっさとやりたいことをやればいいんだ」

「氷河……」
「氷河」
瞬の切なげな声と アテナの冷静な声が 重なる。
自分が 神と神の会話に割り込んでしまったことに気付いた瞬は、怯えたように小さく身体を震わせたが、アテナは寛大な神らしく、瞬の僭越を咎めるようなことはしなかった。
代わりに、いたわるような声音で、氷河を諌める。
「そんなことを言うものじゃないわ。あなたの存在が失われてしまったら、瞬が悲しむでしょう」
「……」
神も人間同様、愛する者がいると自暴自棄になりきれないものらしく、氷河は、自身の消滅を願う言葉を それ以上 重ねることはしなかった。
瞬を悲しませないために、アテナが そんな氷河の説得を続ける。

「人の命には限りがあって、その肉体は 儚く、か弱い。あなたと一緒にいたら、それこそ瞬だって凍え死ぬことになるかもしれないわ」
「僕は、氷河といても、凍えたりなんかしないよ! ……凍えたりしません!」
氷河には、瞬の死こそが、何よりも恐ろしく、回避したいことだったのだろう。
瞬の死を持ち出されて黙り込んでしまった氷河の代わりに 口を開いたのは、瞬だった。
まるで幼い子供を あやすような表情と口調で、アテナが瞬に告げる。
「それは、あなたが恋をしているからね」
「だから、僕から氷河を取らないで……!」
「そうしたいのは やまやまなのだけど……それを許してしまったら、地上の多くの人間が死ぬことになるわ。おそろく、あなたの村の人々が 真っ先に。遅いか早いか、凍死か餓死かの違いはあっても、結局、結果は同じ。他の村や他の国にまで、氷河の力の影響は広がる」
「……」

そんなことは、改めて言われなくても、瞬には わかっていただろう。
この事態に、この地上で最も胸を痛めている人間は瞬だったに決まっている。
瞬の瞳が涙でいっぱいになるのを見て、星矢は そう思った。
それでも瞬は 氷河と共にいたいのだ――と。
「俺は、瞬と一緒にいたい」
瞬には言えない言葉を、氷河が口にし、
「でもね。氷河。瞬は人間で、いずれは死すべき運命を負っている者なのよ。あなたの恋は、いつかは終わる。ハーデスが心惹かれるほどの美しさ清らかさを持つ者でも、瞬を神にするわけにはいかない」
アテナが首を横に振る。

それは怒りなのか、悲しみなのか――。
氷河の感情が激しく昂ぶったのが、星矢たちには感じ取れた。
星矢たちには、氷河が、感情の起伏が少なく 表情の変化に乏しい男に見えていたのだが、それは とんでもない誤解だったらしい。
彼は 冷やかな男を装ってだけで、実際の彼は相当の激情家のようだった。
自分には どんな責任もないことで 受け入れ難い運命を強いられる理不尽、その理不尽に対する怒りで、彼の感情は嵐のように荒れ狂っていた。
神と人間とで、いったい何が違うのか――と、星矢は思ったのである。
神と人間を分けるのは、その力と命――不死と可死の別だけで、心は何も変わらないと。
氷河の その心が激しく燃え上がり、その心の咆哮が彼の周囲に凍気を生む。
真冬にも経験したことのない その寒さに 星矢と紫龍は震えあがり、そして、氷河の生んだ寒さは瞬の身体までを凍えさせ、震えさせることになった。

『人の命には限りがあって、その肉体は 儚く、か弱い。あなたと一緒にいたら、それこそ瞬だって凍え死ぬことになるかもしれないわ』
『僕は、氷河といても、凍えたりなんかしないよ!』
その言葉が、氷河に決意をさせたようだった。
「……天上界に帰る。瞬を死なせるわけにはいかない」
人間の命には限りがある。
だからこそ今、自分のせいで瞬を死なせるわけにはいかないという思いが。
「氷河……!」
寒さに震える身体を持つ自分を嘆き、そんな自分に憤り、瞬が氷河の名を呼ぶ。

寒さに震える身体を持つ瞬を、氷河は、責め なじることはしなかった。
むしろ、そんな瞬だからこそ愛しいのだというように、彼は 微かな笑みを瞬に向けた。
「天上界で、俺はずっと一人だった。おまえに会えて、束の間とはいえ 共に過ごすことができて、俺は幸せだった。俺は おまえのことを永遠に忘れない。おまえは早く忘れてくれ」
「氷河……」
諦観ゆえか、瞬を思う気持ちゆえか、激していた氷河の感情は、今は凪いでいるようだった。
瞬の瞳から あふれ出た涙が凍りつくことなく、雫のまま 瞬の頬を零れ落ちていくところを見ると。

瞬の命には限りがあり、その身体は 儚く、か弱い。
流した涙も、今 この瞬間だけのもの。
だが、永遠の命を持つ神が『永遠』と言えば、それは本当に永遠なのだ。
瞬と出会い、恋をしたこと、共に過ごした日々を、彼は永遠に忘れないのだ。
瞬が その命を終えても。

「氷河……」
だから、瞬は――瞬には、氷河を引きとめることはできないのである。
瞬は死すべき さだめを負った人間。
たとえ二人でいることが許されても、いずれ瞬の命は終わり、氷河は一人になる。
永遠の命を持つ神を引きとめることが、命に限りのある人間にできるわけがなかった。






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