そんなふうに、氷河の変貌振りは グラード学園高校の教師生徒たちに驚きをもって迎えられ、あちこちで波風を起こしていたのだが、氷河当人は そんなことは全く意に介していなかった。
瞬以外の人間が へのへのもへじに見えるどころか、そもそも 瞬しか見ていない男に、そんな騒ぎは認知すらされなかったのである。

その日――瞬が高等部に進級して1ヶ月が経った五月晴れのある日、その放課後。
瞬が(瞬を追いかけて氷河も)入部した社会福祉研究部の その日の部活動は、学園のある区内にある介護老人保健施設でリハビリ中の老人の日常生活の介護の手伝いをすることだった。
活動終了後、学園に戻ってきた部員たちのミーティングは、部室ではなく、生徒に解放されている生徒会館にあるフリースペースで実施。
瞬の入部以降、社会福祉研究部では、福祉活動作業のある日は、そこで瞬の手製のタルトが部員にふるまわれるのが恒例になっていたのだ。
今日は天気がいいので、屋内ではなく、オープンテラスにあるテーブル利用。
もちろん、他の部員たちは、瞬からタルトを受け取ると、氷河の機嫌を損ねないように 他のテーブルに移動する。
タルトを配り終えた瞬が着席している6人掛けのテーブルに同席しているのは氷河だけだった。

部のミーティングとはいっても、その実体は、活動後の慰労会である。
福祉活動などには実は全く興味のない氷河は、今日の活動内容には全く言及せず、ひたすら瞬の気を引く作業に 熱心に いそしんでいた。
「瞬、今度の日曜、イチゴ狩りに行かないか? 狩ったイチゴでタルトを作るお楽しみイベント付きなんだ。まあ、タルトなんて、おまえは作り慣れているだろうが。おまえのタルトは絶品だからな」
「そんなことないよ。氷河のマーマのタルトには まだまだ及ばない。イチゴ狩りにタルト作り? 楽しそうだね」
「そうか! じゃあ、早速、予約を入れておこう」

瞬の色よい返事に、氷河は満面の笑みを浮かべた。
瞬が高等部に来てくれたおかげで、授業時間以外は一緒にいられるようになったのはいいが、校内では常に他の生徒たちの目がある。
その上、氷河と違って本当に優等生の瞬は、休日や放課後も 図書館での勉強やボランティア活動に時間を充てることが多く、そのため、二人きりになる機会を これまで ほとんど持てずにいた氷河は、大いに不満を募らせていたのだ。
が、ついに もたらされた瞬の嬉しい返事。
しかも、これは、(多少 色気に欠けるが)デートと言っていいイベントの約束だろう。
氷河の喜びよう、その笑顔は、彼の不機嫌な顔しか知らない福祉活動研究部の部員 及び たまたま その場に居合わせた他の生徒たちの背筋を凍りつかせるほど明るいものだった。

誰もが、そんな氷河の笑顔に戦慄し、いっそ この場から逃げ出したい、少しでも遠くに避難したいと思い始めていた、その時。
なぜか、瞬と氷河が着席しているテーブルに近付いていく人影があったのである。
「イチゴ狩りにイチゴのタルト作り? それは素敵ね。ぜひ、私たちもご一緒したいわ」
命知らずでなければ、よほどの強心臓の持ち主。
一般の善良な生徒たちが そう思った豪傑の人影は三つ。
しかも、それらは、一見した限りでは、か弱い少女のものだった。

「誰だ」
瞬との語らいを邪魔されて不機嫌になった氷河が、声のした方を振り向く。
そこにいたのは、グラード学園高校の制服を身に着けた三人の女生徒だった。
制服のリボンは、氷河のネクタイと同じ臙脂色。つまり、2年生である。
氷河に、何者かと問われた三人の中の一人が、ひどく大袈裟な口調で告げた言葉は、
「まあ、ひどい! 自分の婚約者の顔を忘れるなんて!」
だった。

氷河が さして驚いた様子もなく、
「婚約者?」
と、彼女が口にした言葉を反復したのは、氷河が彼女の発言に驚かなかったからではない。
それは、驚く以前の問題。
彼女が口にした言葉の意味を、氷河は にわかに理解することができなかったのである。
二人目の女生徒が、氷河の鸚鵡返しに 大きく頷き返してくる。
「ええ。忘れもしない12年前。忠律府幼稚園で、約束したでしょう。私をいじめた責任をとって、私と結婚するって」
「結婚?」
氷河が さして驚いた様子もなく、彼女が口にした言葉を反復したのは、これまた 氷河が彼女の発言に驚かなかったからではない。
それもまた、驚く以前の問題。
彼女が口にした言葉の意味を、氷河は 咄嗟に理解することができなかったのだ。
三人目の女生徒が、氷河の反応の薄さに焦れたように その名を名乗ってくる。

「私よ、絵梨衣。忘れたの? 二重人格が不気味だと言って、あなたは散々 私をいじめてくれたじゃないの」
「爆発頭のフレアよ。髪の毛が鬱陶しいと言って、露骨に嫌がってくれたわよね」
「ナターシャの名を忘れたとは言わせないわよ。マーマと同じ名前なんて生意気だから、ジドーシャかジテンシャに改名しろと、あなた、私に ひどいことを言ったじゃないの」
「……」
三人の自己紹介が終わっても、氷河が さして驚いた様子を見せなかったのは、もちろん 氷河が彼女等の発言に驚かなかったからではない。
それこそ、驚く以前の問題。
彼女等が何を言っているのか、本当に、全く、完全完璧に、氷河には理解できなかったのだ。
彼女等が名乗った名に、氷河は全く聞き覚えがなかった。
彼女等の顔にも、見覚えはない。

訳がわからないながらも、氷河が 今 自分が置かれている状況を把握し始めたのは、彼女等の発言と迫力に、瞬がびっくりしていることに気付いたからだった。
婚約者を名乗る三人ではなく、瞬の反応を気にして、氷河は彼女等の反駁に及んだ。
「何を言っているんだ、おまえらは。人違いだ。俺が人をいじめたりするはずがないし、まして婚約なんて、そんなことをするはずがない」
瞬以外の人間をいじめることも、瞬以外の人間と婚約するようなことも――その行為の内容が何であれ、瞬以外の人間のために時間を割くこと自体が無駄で無益。
たとえ幼稚園の頃のことであっても、そんな益のないことを自分がするはずがない。
そう確信した上での氷河の反論に、絵梨衣と名乗った女生徒は、氷河以上に確信に満ちた口調で怒鳴り返してきた。

「その金髪を、私が見間違うはずがないでしょう! あなたに いじめられて傷付いた私が、責任をとるよう要求したら、あなたは責任をとって私と結婚するって言ったのよ!」
「私にも言ったわ!」
「私にも! 忘れたとは言わせないわよ、氷河!」
そんなことを言われても、その記憶がないのは厳然たる事実。
そもそも彼女等の訴えが本当のことだったとしても、そんな子供の頃の口約束に どんな拘束力があるというのか。
たとえあったとしても、そんなものは とうの昔に時効を迎えているだろう。

「言い掛かりはやめてもらおう。俺には、そんなことを言った記憶はない。おまえ等をいじめた記憶もなければ、会った記憶もない」
言い逃れではなく、それは氷河にとっては確かな事実だった。
氷河の中には、本当に彼女等に関する記憶が かけらほどにも存在しなかったのだ。
しかし、彼女等は そうではなかったらしい。
三人は、氷河の断固とした拒否に出会うと、居丈高な態度を(多少)改め、今度は泣き落とし作戦を開始した。
「ひどい……。私たち、あなたの言葉を信じて、これまで ちゃんとした彼氏も作らずにいたのに……」
「結婚できないのに婚約の履行を迫るのも何だからと、民法上 結婚ができる歳になるまで、健気に待っていたのよ、私たちは」
「あなたには、私たちをいじめた責任と、私たちの これまでの清く正しい青春に対して責任をとる義務があるのよ。法律云々はさておくにしても、人道的に!」

『ちゃんとした彼氏と ちゃんとしていない彼氏は どう違うんだ』
『俺はまだ17歳だぞ。民法上の婚姻適齢を気にするのなら、自分の年齢だけでなく、その結婚相手の年齢も気にしてほしかった』
『法律上の義務は他者に履行を迫ることもできるだろうが、人道的義務を他者に強要することはできないだろう』
等々、彼女等に言いたいことは腐るほどあった。
実際、氷河は彼女等を論破して、彼女等に大人しく引き下がってもらおうとしたのである。
氷河が そうしなかったのは、自分がそれどころではない状況に追い込まれていることに気付いたからだった。
彼は、突然 現われて 訳のわからないことを わめき出した女の相手などしている場合ではなかったのだ。
ふいに登場し 氷河に結婚を迫り出した三人の女生徒の迫力に驚いているようだった瞬が、今は 彼女等に結婚を迫られている男の顔を、世界の珍獣コビトカバを見るような目で見詰めている。

「瞬、誤解だっ!」
氷河は もちろん、狂人としか思えない三人の撃退より、瞬の誤解を防ぐことの方を優先したのである。
が、氷河の対処は少々 遅きに失したようだった。
誤解を防ぐも何も、瞬は とうの昔に誤解してしまっていたのだ。
「氷河は優しくて恰好いいから、女の人に好かれるのは当然だと思うけど、婚約者が三人っていうのは、ちょっと多すぎるんじゃないかな」
婚約者が三人いることが 尋常の事態ではないことは、瞬もわかっているようだった。
しかし、その尋常ならざる事態に、瞬は特段ショックを受けていないらしい。
困惑はしているのかもしれないが、氷河に婚約者が三人もいることに激した様子はなく、取り乱しもせず、心配顔で そう言う瞬に、むしろ氷河の方がショックを受けてしまったのである。

「イチゴ狩りは婚約者の皆さんたちとどうぞ。僕は遠慮した方がよさそう」
掛けていた椅子から立ち上がり、氷河の三人の婚約者に軽く お辞儀をして、瞬は氷河に背を向けた。
そのまま 速くもなく遅くもない足取りで――全く感情を乱されていない足取りで、1年の校舎に向かって歩き出す。
「しゅ……瞬……」
瞬の足取りが、その場から少しでも早く逃げ出そうとする者の足取りだったなら、氷河は すぐに瞬のあとを追いかけていただろう。
瞬の歩みが、氷河の弁解を期待している者のそれのように ためらいがちだったなら、氷河は瞬を 無理にでも その場に引きとめていた。

だが、それが あまりに自然で普通だったから――氷河は、瞬を追うことも、その場に 引きとめることもできなかったのである。
氷河にできたことは、突然 湧いて出た幼馴染みの三人の婚約者に まるでショックを受けていないらしい瞬にショックを受けて、阿呆のように呆然と 瞬の後ろ姿を見詰めることだけだった。
三人の婚約者は確かに多すぎる。
一人でも多すぎるのに、その3倍も それは湧いてきたのだ。

「で? イチゴ狩りはどこ?」
「私たちは、何時に どこへ行けばいいの?」
「ひらひらした格好は避けた方がいいのかしら?」
自称婚約者たちが口々に何か言っていたが、瞬の冷静と その自若振りに打ちのめされた氷河の耳に、彼女等の声は 意味のある言葉として届いていなかった。






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