氷河の三人の婚約者が四人目のライバルに戦いを挑んできたのは、その翌々日。 放課後では掴まえ損ねることもあると考え用心したのか、三人が瞬を呼び出したのは、昼休み開始直後の体育館西口前。 果たし合いの常套の作法として、彼女たちは瞬を“体育館裏”に呼び出したかったのかもしれないが、グラード学園の体育館は 方形ではなく円形であるため、裏がどこなのか わからない造りになっているのだ。 瞬と同じクラスの星矢は、異変に気付くと、すぐさま氷河と紫龍への注進に及んだのである。 弁当が入っているらしいバスケットを抱えた瞬と、氷河の婚約者を自称する三人の上級生の対決。四人の間に飛び込んでいこうとした氷河を 体育館脇の木の陰に引きとめたのは紫龍だった。 「おまえが出ていくと、ややこしくなる。このまま瞬に任せておけ」 「そんなわけにいくか!」 「いくら何でも、暴力沙汰にはなるまい」 「なっても、瞬なら軽く いなせるだろうしな。心配することねーぜ」 用意周到というべきか、星矢は あんパンと牛乳パック持参、紫龍は中華まんと烏龍茶持参。 彼等は 氷河の婚約者たちと瞬の対決を、安全地帯から観戦する気満々のようだった。 二人の幼馴染みの のんびりした様子に、氷河は かえって焦慮の色を濃くすることになったのである。 たとえ 3対1の喧嘩になっても、瞬が負けることはないだろうが、だからといって この戦い(?)を飲食しながら見物していられる星矢たちの気がしれない。 そんな星矢たちを、氷河は なじろうとしたのだが、それが まずかった。 氷河が のんきな幼馴染みたちの態度に腹を立てている間に、メイン会場でのバトルのゴングが鳴ってしまったのだ。 バトルの口火を切ったのは、幼稚園児だった頃の氷河が 二重人格と言って いじめた(らしい)絵梨衣だった。 「時間もあまりないことだし、さっさと用件を済ませましょう。氷河から手を引いてほしいの。氷河と婚約したのは、私たちの方が先なんだから」 「手を引くも何も……。こういうことで何よりも尊重されるべきなのは、氷河の気持ちなんじゃないですか。氷河には好きな人がいるんです」 「しゃあしゃあと言ってくれること。もちろん、私たちとの婚約後に 氷河に好きな人ができたとしても、人の心は自由なのだから、それは仕方がないことだと思うわよ」 「でも、それならそれで、婚約者への仁義を立ててほしいじゃないの。氷河は 彼の婚約者である私たちに、仁義に もとることをしてくれたのよ」 ガキの頃の口約束に どれほどの拘束力があるのだと、氷河としては彼女等に訴えたいところだったのである。 実際、氷河はそうしようとした。 あんパンを口にくわえた星矢が、そんな氷河を引きとめる。 「皆さんが氷河を好きな気持ちはわかります。氷河は優しくて、思い遣りがあって――」 「氷河に そんなものはないでしょう。彼は、顔の造作がよくて、クールなところがいいのよ。あなた、氷河を誤解しているようね。彼の婚約者失格」 せっかく瞬が 決して優しくない男を優しいと思ってくれているのに 余計なことを言うなと、瞬に そう思ってもらえるようになるための これまでの俺の努力を水の泡にするつもりかと、氷河は 彼女等を怒鳴りつけたかった。 氷河が そうしなかったのは、ちょうど中華まんを食べ終えた紫龍に引きとめられたから――ではなく、絵梨衣たちの言うことが紛う方なき事実だったから。 氷河という男は優しい男ではない。 氷河自身も自覚している その事実を、しかし 瞬は首を左右に振って 認めようとはしなかった。 「皆さんの方こそ、氷河を誤解しています。氷河は とっても優しいです。子供の頃から、氷河は いつも優しかった。僕が泣いていると、氷河はいつも慰めて励ましてくれた。僕は 本当にひどい泣き虫だったから、花が枯れたと言っては泣き、気の毒な子供たちの話を聞いては泣き、自分で自分に うんざりするような子供だったのに……。氷河だって 呆れて当然だったのに、氷河は そのたび優しく僕を慰めてくれました」 「はあ……?」 「氷河のお母さんが亡くなって、僕が氷河を慰め励まそうとした時も、それで マーマを亡くした氷河の悲しみが癒えたはずがないのに、氷河は僕のために立ち直った振りをして、無理に笑ってみせてくれた。僕が初めてタルトを作った時も、失敗して消し炭みたいになったタルトを、氷河は全部 食べてくれた。氷河は いつだって、誰よりも優しかった。小学校にあがってからだって、僕がクラスメイトに女々しいって言われて 落ち込んだ時も、氷河は――」 氷河が いかに優しく思い遣りに満ちた友人であるかを、瞬は滔々と、延々と、いつまでも語り続ける。 幼稚園時代から始まった氷河の優しさの歴史と実績が 氷河の中学卒業に至ったところで、さすがに それ以上は耐えられなくなったらしいナターシャが、うんざりした顔で、瞬の歴史講義を遮った。 「ストップ。それ以上は もう結構よ。氷河が あなたに優しいことは、よーく わかりました」 「ええ。百歩譲って、氷河が優しいことは認めてあげてもいいわ。でも、それは あなたが優しいということではないわよね」 「そうそう。あなたに“情けあり”の証明にはならないわ」 三人に そう言われて やっと、瞬は、自分がすべきことが何だったのかを思い出したらしい。 すなわち、“才長けて、見目 麗しく、情けあり”の証明。 だが、それは、謙虚謙抑の美徳に恵まれた瞬には、なかなか困難な作業のようだった。 「僕は……いつも氷河に慰めてもらうばかりで――」 瞬が言葉を詰まらせ、その瞼を伏せる。 その様を見て、氷河の三人の婚約者たちは勝ち誇ったような顔になったが、瞬は それで尻尾を巻いて逃げ出すことは(意外にも)しなかった。 すぐに瞬は顔をあげ、三人への借問を始めたのである。 「皆さんの中から誰か一人を選んでほしいと、皆さんが、氷河に言えるのは なぜですか? 選ばれなかった お二人は氷河のことは諦めてしまうの?」 「え?」 「それは――」 「それは仕方ないでしょう。私たちも氷河も 一夫多妻制のイスラム教徒ではないし、もし そうだったとしても、複数の妻の中の一人なんて立場は、私は ご免だわ。氷河に選ばれなかったら、その時には 氷河のことはすっぱり諦めて、新しい恋を探すわよ。そんなことで落ち込んでなんかいられないもの」 「でも……恋って、自分がいることで、自分の好きな人が幸福になってくれればいいと願う気持ちでしょう? 自分に その力がないとわかったら、悲しくて つらくて……。こんなことを言うのは失礼かもしれませんが、僕、皆さんは、多分、氷河に恋をしていないと思うんです。氷河との婚約のことも、本当は 皆さんが望んだことではなく、氷河が結婚の約束をしたのが自分だけじゃなかったから、それが癪に思えて、氷河を諦めることが 自分の負けを認めることのように感じられて、それで意地を張っているだけなんじゃないかと思うんです」 「……」 おそらく それは事実だったのだろう。 言葉に詰まったのは、今度は氷河の婚約者たちの方だった。 もちろん、それぞれにプライドの高い彼女たちは、大人しく瞬に言い負かされるようなことはしてくれなかったが。 「だから? だったら、どうだっていうのよ? そんな変な理屈で、私たちを追い払おうったって、そうは問屋が卸さな――」 ナターシャが 激した声で瞬への反駁に及びかけた、その時だった。 あと5分で昼休みが終了することを告げる予鈴のチャイムが 校内に鳴り響いたのは。 途端に、氷河の三人の婚約者たちが慌て、浮足立ち始める。 「やだ、私、まだ お昼食べてないのに! あと5分でレストランもカフェラウンジも閉まっちゃうわよ!」 「購買部も閉まるわ。お昼、どうするのよ!」 「もう! あなたが、氷河が優しいなんて馬鹿な話を延々としてくれたせいよ! どうしてくれるの!」 腹が減っては戦はできぬ。 三人に、情けない顔で責められた瞬の対応は素早かった。 すぐ脇にあった石のベンチに腰掛けるよう 手で指し示すと、持参のバスケットから厚手の紙皿とフォークを取り出して、彼女等に配る。 そして、いったい何が始まるのかと訝っている彼女たちの手許の皿に、 「これ、部活のあとで氷河たちに食べてもらおうと思って持ってきたキッシュとイチジクのタルトです。お口に合うかどうかわかりませんけど、急いで食べてください」 と言って、瞬は手際よくキッシュとタルトを1切れずつ載せていった。 無論、彼女たちは すぐに喜んで それらを食したりはしなかった――が。 「そ……そんな、敵に送られた塩で空腹を満たすなんて、そんなカッコ悪いことが、この私にできるわけがないでしょ!」 言葉とは裏腹に、高らかに『ぐうぅぅぅ〜』と空腹を訴える腹の虫の声。 「背に腹は代えられないわ!」 最初にタルトにフォークを入れたのは、フレアだった。 「ええ。遠慮なさらないでください。おなかが減ってたら、午後の授業にも気が入りませんよ。時間がありませんから、急いで」 『ひもじさと 寒さと恋を比ぶれば、恥ずかしながら ひもじさが先』と詠んだのは誰だったか。 もちろん、それは真実である。 瞬が更に進める前に、絵梨衣とナターシャも陥落。 つい先ほどまでの挑戦的態度はどこへやら、彼女等は瞬の手製タルトに舌鼓を打ち、その表情は笑顔全開。 「おいしい! 何これ!」 「こんな おいしいタルト、初めて食べたわ!」 「ほんと、すごくおいしい! あなた、お店を開けるわよ!」 「そう言っていただけて、嬉しいです」 三人の大絶賛を受けて、瞬もまた 先刻までの緊張を消し去って満面の笑顔。 敵から送られた塩で命をつないだ三人が 気まずい顔になったのは、彼女等がキッシュとタルトを綺麗に食べ終えてからだった。 もっとも、三人にとっては幸いなことに、彼女等は その気まずさに いつまでものんびりと浸っていることはできなかったのである。 彼女等の空腹が満たされた直後、午後の授業の開始を告げる本鈴が鳴り、彼女等は瞬に急きたてられて それぞれの教室に向かうことになったから。 三人を送り出した瞬もまた手早く後始末をして、まもなく1年の校舎に向かって駆け出した。 そういう経緯で。 最後に その場に残されたのは、 「あなたに情けがあることと、あなたの作ったタルトが 滅茶苦茶おいしいことは認めるわ」 という氷河の婚約者たちのメッセージと、瞬の見事な戦いぶりに感心している星矢と紫龍、そして、 「俺より食い物の方が大事な婚約者なんて、願い下げだ!」 と毒づいている空腹の金髪男だけだった。 |