「迷子なの? どうして こんなところにいるの?」 と、私に話しかけてきたのは、随分と可愛らしい、女の子みたいな顔をした男の子だった。 綺麗で可愛いけど、隙のない身のこなし。 そして、恐ろしく澄んだ、綺麗な瞳。 聖衣を身に まとってはいなかったけれど、これがアンドロメダ座の聖闘士だと、私には すぐにわかった。 本当に、聞いていた通り。 “地上で最も清らかな魂の持ち主”だったかしら。 あのハーデスが、自身の魂の器として選んだ人間。 ハーデスの面食いは病気ね、ほんと。 まあ、この子も病気と言えば病気なんでしょうけど。 それも、重篤な。 「あなた、聖闘士なの?」 問われたことには答えず、私は逆にアンドロメダに問い返した。 「そうだよ」 アンドロメダが首をかしげながら答えてくる。 まあ、妥当な反応。 ここは知恵と戦いの女神アテナが統べる聖域、そのアテナ神殿の前。 私みたいな子供がいるのは おかしなことだもの。 でも、現実には そういう おかしなことが ままあるわけよ。 「私は迷子じゃないわ。私の母さんは、ゴブラン織の名手なの。この神殿に飾られている古いタペストリーが ほつれてきたとかで、修繕を依頼されたのよ。私、母さんについて ここに来たんだけど、神殿の中に入っちゃ駄目って言われて、お散歩に出てたの」 「タペストリーの修繕? アテナ神殿にタペストリーの飾られている部屋があったかな……?」 「さあ、そこまでは知らないわ。私、今日 初めてここに来たんですもの。かなり古いもので、絵柄も特殊なものらしいから、私も見てみたいんだけど」 「タペストリーの絵を見たい……? まだ小さいのに、君は お母さんのお仕事を手伝っているの?」 「ううん。私は、織る方じゃなくて、図像の方をやりたいの。絵柄のデザイン」 「タペストリーのデザインを? すごいね」 アンドロメダの歳は10代半ばといったところかしら。 私の言葉を疑いもせず、そのまま信じて、私の語った未来の夢に素直に感心している。 聖闘士として、こういうのってどうなのかしらね。 私が邪神の手先だったらどうするの。 これは、アンドロメダが人を疑うことを知らない性分だからなのか、私の子供の姿に油断して、気を緩めてしまっているせいなのか。 まあ、その両方なんでしょうね。 それにしても、綺麗な目。 とても 心を病んでいるとは思えない。 病んでいるからこその清らかさではないわね、これは。 「あなた、綺麗ね。恋人いる?」 「え……」 あら、唐突すぎたかしら。 アンドロメダが びっくりして瞳を見開く。 そうね。 恋人の有無なんて、私みたいに純真な(?)子供が、アンドロメダみたいな大人(かどうかは知らないけど、百戦錬磨のツワモノ)に、興味津々で訊くようなことじゃないかもしれないわね。 でも、そこが肝心なところだから。 「私、描いてみたいわ。タペストリーより、絵の方がいいわね。恋し合う二人。あなたの恋人なら当然 綺麗でしょう」 とか何とか言って、私は慌てて 場を取り繕った。 これは下世話で通俗的な野次馬根性から出た質問なんかじゃなく、あくまでも芸術的見地から発せられた質問。 芸術家を志す者なら、子供だって、“愛”や“恋”や“神”や“理想”について洞察する。 そんなふうを装って。 アンドロメダは――多分、誰かに話したかったんでしょうね。 自分の恋。自分の恋人のこと。 そして、私みたいに無邪気な(?)子供になら、それを語っても 差し障りはないと考えた――おそらく。 アテナ神殿のファサード。 大人たちに邪魔者扱いされて、神殿から追い払われ、いかにも時間を持て余している子供の風情で、私はドーリア式の柱の台座に腰を下ろした。 そして、 「もちろん 綺麗なんでしょ? 絵に残したいくらい」 と、水を向ける。 聞く気 満々、むしろ 話してもらうまで逃がさないっていう目で。 アンドロメダは、それでも しばらく ためらっていたけど、結局 語り始めた。 やっぱり誰かに聞いてもらいたかったのよ、アンドロメダは。 「僕の好きな人は、陽光みたいに明るい綺麗な金髪の持ち主で、空を切り取って作った宝石みたいに青い瞳をしていて、クールを気取りたがってるけど、優しすぎて いつも失敗している。そんな人だよ」 そう言って、アンドロメダは、その視線を聖域の上に広がっている青い空に向けた。 そこにあるのは、初夏の晴れた青い空。 アンドロメダの好きな人は、こういう色の瞳の持ち主というわけね。 なんて素直で わかりやすいんでしょ。 でも、私は素直でも わかりやすくもないから――ついでに正直でもないから、 「陽光みたいに明るくて綺麗な金髪と 空を切り取って作った宝石みたいに青い瞳? あら、もしかして、あなたのこと?」 なーんて、白々しいことを言って、大袈裟な素振りで後ろを振り返ってみせたりするわけよ。 正確には、左斜め後方。 そこに、アンドロメダの言った条件にぴったり当てはまる容姿の持ち主が立っていたから。 分別も落ち着きもない子供が悪さをしないようにと、アテナから 私の お目付け役を言いつかった白鳥座の聖闘士が。 なぜアテナの聖闘士が民間人の子供の お守りをしなければならないんだと言いたげに、さっきからずっと ふてくされっぱなしだったキグナス。 あなたを、愛しい恋人の許に導いてやった私に感謝しなさい。 ま、私は無邪気で純真な子供だから、そんなことは何も言わず、何も知らない子供の振りを続けたんだけど。 アンドロメダは、私のその言葉と所作に驚いて――空に投じていた視線を、すぐに私の上に戻してきた。 正確には、私の上じゃなくて、私が振り返った辺り――私の左斜め後方に。 落ち着かない様子で 目を凝らし、アンドロメダは、陽光みたいに明るい綺麗な金髪と 空を切り取って作った宝石みたいに青い瞳を持った恋人の姿を探し求める。 そんなアンドロメダに気付いていない振りをして、私はキグナスに尋ねた。 無邪気で いたずら好きな子供の顔をして。 からかうような口調で。 「もしかしたら、あなたの恋人は、とっても澄んだ瞳と やわらかい髪の持ち主で、可愛らしい面差しをしていて、人を疑うことを知らないような人?」 「ああ」 キグナスが かすれた声で答えてくる。 キグナスは、さっきまでの不機嫌そうな態度はどこへやら、乾いた砂漠を旅する旅人がオアシスの水を求めているみたいな目で、絶望の闇の中に閉じ込められた人間が光を求めているみたいな目で、私と言葉を交わしている相手の姿を探し始めていた。 これが恋する者の目というわけ? 切ないわね。 「なーんだ、そういうことだったの」 今 初めて気付いたような顔をして、私は再度アンドロメダの方に 向き直った。 そして、あくまでも純真な子供の振りをして、虚空を凝視しすぎて呆然としているように見えるアンドロメダに尋ねる。 「名前は、何ていうの?」 「え……あ、僕? 瞬だよ」 「そうじゃなくて、ううん、あなたの名前もだけど、あなたの好きな人の名前。聖衣の星座じゃなく――聖闘士としての名前じゃなく、一個人としての名前」 それは、アンドロメダにとって、とても大事なものだったんでしょうね。 それこそ、空を切り取って作った青い宝石みたいに。 一度 唇を引き結び、細く吐息してから、アンドロメダは その大切なものの名を音にした。 「氷河」 アンドロメダに手渡されたものを受け取り、後ろを振り返って、私は今度はキグナスに尋ねる。 「あなたの名前は」 「氷河」 キグナスから、アンドロメダが教えてくれた名前と同じ名前が返ってくる。 二人の間で 分別顔で頷いて、私は 殊更 無邪気を装い、 「最初から、ここにいるキグナスがそうだと言ってくれればよかったのに、人が悪いわね」 と、滅茶苦茶 白々しく アンドロメダに文句を言った。 瞬がそれを私に教えられない訳は、一応 聞いているんだけど――でも、私は、自分の目と耳で それを確かめてみたかったから、あえて文句を言ってみせたの。 私が聞いていた二人の事情は、嘘でも誇張でもなかったらしい。 アンドロメダが、恐る恐る――というより、半分泣きそうな目をして、 「あの……もしかして、ここに氷河がいるの?」 と、私に尋ねてきたところを見ると。 ほんとなのね。 嘘でも誇張でもなく、本当のことだったんだわ。 「やだ。それって、最近 流行ってるギャグか何かなの? それとも、私が子供だからって、からかってるの?」 嘘でも誇張でも 流行りのギャグでもない、ほんとのこと。 アンドロメダには、キグナスの姿が見えていない。 キグナスは、私のすぐ後ろにいるのに。 そして、キグナスにもアンドロメダの姿が見えていない。 こんなに側にいるのに。 二人の間にある距離は、2メートルは超えているけど、3メートル以上はない。 それでも、アンドロメダにはキグナスの姿が見えていない。 キグナスの目にアンドロメダの姿は映っていない。 世界のあるべき様相と秩序への挑戦ね、これは。 いってみれば、世界を世界たらしめている重要な掟に反する行為。 キグナスとアンドロメダは、絶対に守られなければならない世界の秩序、存在の秩序を乱している。 秩序を乱す者は、神に懲らしめられなければならないのよ。 |