エルピス






争いの女神にして、数々の災厄の母エリスが氷河を気に入り、氷河が 彼女を 当然のごとくに きっぱりと拒絶したのが、すべての始まりだった。
誇りを傷付ける者は、それが神であっても許すことをしない争いの女神は、氷河を許さず、彼に一つの呪いをかけたのである。
彼女は、憎しみの武器で氷河の右の上腕に一条の傷をつけ、彼と彼の仲間たちの前で、
「その傷は決して癒えることはない。傷口から入った毒は少しずつ そなたの腕を侵し、最後に その腕は そなたの肩から腐れ落ちることになるだろう。命は奪わないよ。不具になり、聖闘士として戦うことのできなくなった我が身を嘆き、争いの女神を怒らせたことを悔やみながら、みじめに生き永らえるがいい」
と、冷ややかな声で宣言した。

エリスの その言葉を聞いて、氷河の仲間たちは仰天してしまったのである。
この女神は いったい何を言っているのかと。
たとえアテナの聖闘士でなくても、人間が、争いの女神の好意を喜んで受け入れることがあるだろうか。
疫病、悲嘆、欠乏、様々な犯罪――あらゆる災厄の母たる女神に愛されることを望む人間がいるだろうか。
争い、不和、疫病、悲嘆、欠乏、憎悪、醜悪、罪――そんなものを我が身に喜んで引き受けようとする人間がいると思う方がどうかしている。
氷河の仲間たちは そう思ったのだが、エリスの考えは違っていたらしい。
卑しい人間の身でありながら 尊い神の愛を拒むことは、途轍もない傲慢、あってはならぬ不敬。
争いの女神は そう考え、そして、神を軽侮した氷河への怒りを燃え上がらせてしまったようだった。

「その傷から入り込んだ毒を浄化することができるのは、この地上世界に ただ一人、ある乙女だけ。その乙女を そなたが愛し、乙女もまた そなたを愛するようになった時、その傷口に乙女が口付けることによってのみ、そなたの腕の毒は消え去るだろう」
「冗談ではないぞ。勝手にそんなことを決めるな」
エリスが、氷河の文句を真摯に受けとめ、考えを改めてくれるような神だったなら、彼女は争いの女神たりえない神だっただろう。
エリスは、氷河の言葉に耳を傾けようとすらしなかった。

「その乙女を見付け出すことができなければ、そなたは片腕を失う。不具になりたくなかったら、アテナの聖闘士として戦い続けたいと思うなら、すぐに その乙女を探す旅に出ることだ。その腕は2ヶ月と もつまいよ。探す当てのない旅に出て、救いの乙女を見付けることができず、片腕を失い、好きなところで のたれ死ぬがいい」
一時は 我がものにしたいと望んだ相手に、冷酷に過ぎる その言葉。
エリスは氷河に対して“可愛さ余って、憎さ百倍”という気持ちになってしまっているようだった。

「待って……! 待ってください!」
言いたいことだけを言って、アテナの聖闘士たちの前から消えていこうとするエリスを、瞬は慌てて引きとめた。
引きとめて――だが、エリスの冷たい瞳を見ただけで、瞬は、彼女に呪いを取り消してもらうことは不可能だということを悟ったのである。
瞬は、争いの女神に せめてもの慈悲を求めた。
「名前――その乙女の名前だけでも教えてください! お願いです!」

引きとめられたエリスが、仲間の身に降りかかってきた災難に 真っ青になっている瞬を ちらりと見やる。
エリスは、瞬の悲痛な様子に同情したのではなかっただろう。
彼女はむしろ、瞬の悲痛な様子を喜び、その声の悲痛な響きに機嫌を良くした。
だからこそ、エリスは瞬の求めに応じてくれたのだ。
争いの女神は、突然 我が身に降りかかってきた災難に むっとしている氷河に上に視線を落とし、口許に冷笑を刻んで、
「エルピス」
と、その乙女の名を告げた。

「エルピス……。その名を持つ乙女を探し出して、氷河の腕の傷に口付けてもらえば、氷河は腕を失わずに済むんですね? 本当ですね?」
なにしろ、相手は争いの女神、不和の女神、ありとあらゆる災厄の母
彼女の慈悲には、更なる不幸を呼ぶ、どんな落とし穴があるかわかったものではない。
エリスに念を押したのは、瞬にしてみれば当然の用心だったのだが、それはエリスには 全く愉快なことではなかったらしい。
一度 顎を上向かせてから、彼女は不愉快そうに頷いた。

「無論。神は嘘はつかない。さあ、キグナス。急いで乙女を探す旅に出るがいい。急がないと、そなたは その腕を失う。そなたのように美しい男が不具になった姿を見ることになったら、私の心も痛むからね」
心にもないこと――もちろん それは心にもないことだったろう――を言って、エリスが アテナの聖闘士たちの前から姿を消す。
エリスの姿が消えたあとに、アテナの聖闘士たちの前に残されたのは、不吉な呪いと 争いの女神の楽しそうな高笑いが作る木霊だけだった。


聖域から 数キロ離れた場所にある古い神殿の跡。
崩れた大理石の柱の残骸。
エリスの姿が消えて初めて、アテナの聖闘士たちは、その廃墟の上に 晴れた青空が広がっていることに気付いたのである。
エリスが残していった呪いに 最も焦っていたのは、争いの女神に呪いをかけられた白鳥座の聖闘士当人ではなく、瞬だった。
つい先ほどまでエリスの姿があった空間を不愉快そうに睨んでいる氷河の側に駆け寄り、瞬が 平素の彼らしくない速い口調で、呪いをかけられた仲間を励まし、急かす。

「氷河、氷河の腕を治すことのできる その乙女を探そう。絶対に探し出そう。捜索に出る許しをアテナにもらって、今日にでも――」
「絶対に探し出そうと言っても――名前しかわからない女を? だいいち、捜索の旅に出るにしたって、どこに向かえばいいか わからないじゃないか」
「それはそうだけど……」
仲間の片腕が失われてしまうかもしれないという事態に直面し、見るからに焦っている瞬とは対照的に、自らの片腕が失われてしまうかもしれないという事態に直面している当の氷河は落ち着き払っている。

そんな氷河の様子を見た瞬が 更に焦慮を増すことになったのは、こういう状況に置かれた場合、慌てるにせよ、嘆くにせよ、多少なりとも取り乱すのが普通の人間の反応だという思い込みがあったからだったろう。
片腕を失う。
そんな事態を大抵の人間は回避したいはずであるし、時間が限られているのなら、少しでも早く そのための対応を図りたいと思うはず。
その気持ちが 氷河の上に全く見てとれないことが、瞬を慌てさせた――むしろ、不安にしたのである。
氷河は最初から その事態を回避することを諦めているのではないかと。

「瞬。そう焦るな。まず、聖域に戻って、アテナに確認しよう。氷河の腕を治療することは可能か否か、エルピスなる乙女を探し出す以外に何か手立てはないのかどうかを。急いては事を し損じるという。施薬や施術で治るものなら、限られた時間は、当てのない人探しより治療のために使った方が賢明だ」
紫龍が そう言って瞬を(氷河ではなく瞬を)落ち着かせようとしたのは、争いの女神が氷河の身に残していった憎しみの毒や傷が 本当に医師の治療で治ることがあるかもしれないと考えていたからではなかった。
仮にも神によって為された呪いが、人智で解消できるわけがない。
ただ 紫龍の目には――星矢の目にも――瞬は焦りすぎ、取り乱しすぎているように映っていたのである。
少し冷静にならないと 瞬は何を始めるか わからないと、案じずにいられないほど。
氷河の方は、こういう事態に直面している人間にしては 落ち着きすぎているように見えはしたが。






【next】