争いの女神の呪いは、アテナの力をもってしても無効にはできない――神の呪いは神の力では解くことができない――というのが、アテナから与えられた答えだった。 エルピスなる乙女を探し出さなければ、氷河の片腕は必ず失われる――というのが。 氷河の腕は2ヶ月ももたないだろうと、エリスは言っていた。 時間は限られている。 にもかかわらず、アテナの その言葉を聞いても、氷河は 一向にエルピスを探しに行こうとはしなかった。 乙女探しの旅に出掛ける準備に取り掛かることさえしない――全く動こうとしない。 そんな氷河に、瞬の焦りは――不安が姿を変えた焦りは――募るばかりだった。 「氷河、どうして そんなに のんびりしているの! 早く、エルピスっていう人を探しに行って。二ヶ月の内に その人を探し出さなければ、氷河は その腕を失ってしまうんだよ!」 時間は限られている。 聖域に留まったまま エルピスを探しに出る気配も見せない氷河を、瞬が大声で急きたてたのは、白鳥座の聖闘士が エリスの怒りを買い 呪いをかけられてから3日後。 60日後にその腕が失われるとして、限られた時間の20分の1を無為に過ごしてしまったことになる氷河が、眉を吊り上げ いきりたっている瞬を見やり、微かに困ったような笑みを浮かべる。 そして、氷河は、瞬が最も恐れていた言葉を口にした。 「広い世界のどこにいるのかもわからないんだぞ。そんな女、探しに出るだけ無駄だ」 氷河は そう言ったのだ。 氷河の冷静さが、ずっと瞬を不安にしていた。 瞬の不安は現実のものになってしまった。 もはや その不安は、焦慮や苛立ちの中に ごまかすことはできない。 瞬は、不安の隠れ蓑にしていた焦慮や苛立ちを消し去り、泣きそうな声で氷河に訴えたのである。 「最初から諦めるの !? 希望を捨てるの !? 氷河、お願いだから、自暴自棄にならないで!」 「自暴自棄になっているわけではない。片腕を失うだけで死ぬことはないのなら、俺は 見付かるかどうかわからない女を探すより、片腕で戦う技を身につけるために努力する。その方がいいだろう。徒労に終わるとわかっていることに、無駄に時間と労力を費やすより、よほど建設的だ」 「そんな……」 氷河は、確かに自暴自棄になっているようには見えなかった。 痩せ我慢をしているようにも、諦観に支配されているようにも 見えない。 片腕を失っても戦い続けることができるよう努力する。 エルピスという名の乙女を探し出そうとし、見付けられず、絶望する結末に比べたら、それは 氷河の言う通り、建設的な対応なのかもしれない。 だが、それは(あまり考えたくはないが)実際に腕を失ってからでもできることである。 腕を失わずに済むのなら、それが 最善の結末ではないか。 氷河は、徒労に終わるかもしれない時間と労力を省きたいと言っている。 エルピスを探すために力を尽くし、見付けられずに味わうことになる絶望を 避けたいと言っている。 氷河の その気持ちは わからないでもないのだが、瞬はまず、最善を尽くすために時間と労力を使いたかった。 だから――瞬は、氷河の代わりに 自分がエルピスなる乙女を探し出すことを決意したのである。 その日から、聖域で右腕を使わずに戦う体練を始めた氷河に代わって、瞬は――瞬が、氷河のエルピスを探し始めたのだった。 瞬は まず聖域近隣の村々を、『エルピスという名の乙女はいないか』と尋ねてまわるところから始めた。 そして、求める人に出会えないまま聖域に戻ってくる日が数日。 そんな瞬に、星矢や紫龍も協力してくれた。 手分けして、あちこちの村や町を巡る毎日。 10日後、氷河は その右腕を肩より上に上げることができなくなった。 それから更に10日が経っても、氷河の仲間たちは、希望という ありふれた名の持ち主を、ただの一人も見付け出すことができなかった。 アテナのいる聖域を、複数の聖闘士が長く留守にすることはできない。 その日のうちに聖域に戻ってくることのできる近隣の村々を探し尽くすと、瞬は 星矢たちには聖域に残ってもらい、一人で泊まりがけで遠くの村に出掛けていくことを始めたのである。 氷河が瞬に はっきりと『エルピスを探しに行くのをやめろ』と言ってきたのは、瞬が初めて 聖闘士の足をもってしても その日のうちに帰ってくることのできない村にまで遠出をした日の翌日。 氷河がエリスの呪いをかけられてから既に ひと月。 氷河の右腕は、彼の意思では もはや1ミリたりとも動かすことのできない状況になっていた。 「俺のために、時間と労力を無駄にしないでくれ」 氷河に そう言われた瞬は、ひどく切ない気持ちになったのである。 片腕になっても戦えるように。 そう考え、そのために努力している氷河のやり方を間違っているとは思わない。 だが、それでも 瞬は最善を手に入れたかったのだ。 氷河が何を失うこともない最善を。 「無駄かどうかは わからないよ。それに……僕、氷河のために何もできないのが つらいの。何もせずにいるなんてできない。居ても立ってもいられない」 氷河の考えを否定し、そのための努力を邪魔しようというのではないのだから、このまま エルピスを探し続けていたいと、瞬は氷河に訴えた。 氷河が、そんな瞬の前で 微かに首を横に振る。 「だが、無駄なんだ……」 かすれた声で そう呟く氷河の瞳の帯びている色が、諦観でも絶望でもなく 傷心のそれに見えることが、瞬を困惑させた。 |