翌日、氷河が無駄だと言うことを それでもやめる気になれず、再びエルピスを探すために聖域を出ようとした瞬を引きとめ、アテナ神殿に招いたのは その神殿の主、知恵と戦いの女神アテナだった。 身体より心の方が疲れているような瞬を見詰め、彼女は玉座から、 「エルピスの名が何に由来するのか、それが どういう意味の名なのかを、あなたは知っていて?」 と、奇異なことを尋ねてきた。 「希望……という意味の名だと――」 なぜ そんなことを問われるのか 訝りながら、瞬が答える。 アテナは浅く頷いた。 「そう。エルピスというのは、希望の名。パンドラの箱の話は知っているわね?」 「あ……はい。プロメテウスが天上界から人間のために火を盗み、そのことに怒ったゼウスがパンドラという名の女性に、箱を持たせて人間世界に送った。その箱には、疫病、悲嘆、欠乏、様々な犯罪――あらゆる災いが入っていて、パンドラが蓋を開けると、それらの災いが世界中に散っていき、最後に希望だけが残された――という話だったと」 「ええ、あらゆる災厄が世界中に飛び散っていったあと、最後に残されたのが希望――その小さな希望の名がエルピス。エリスが言っていた、氷河を救うことのできる乙女の名はエルピスではないと思うわ。エリスは、最後の小さな希望という意味で その名を口にしたのよ。おそらく、ミスリードを誘って、氷河を徒労に走らせるために」 「そんな……」 名前の他に、エリスの呪いを解くことができる乙女を探す手掛かりはないというのに、その名前すら本名ではなく、見立てにすぎなかったとは。 エリスが一筋縄でいかない神だということは わかっているつもりだったのに、まんまと彼女の手に乗せられて 無駄な足掻きをしていた自分に、瞬は呆然としてしまった。 そんな瞬を、アテナが気の毒そうに見おろしてくる。 「もっと早くに言おうと思ったのだけど、氷河が、それを あなたに知らせることは、それこそ あなたから希望を奪うことだと言って……。仲間のためにできることは何もないと知れば、あなたは そんな自分を責めかねない――と」 「氷河が……」 「片腕になっても戦えるように努力している自分を見ていれば、自分の希望がどこにあるのか、あなたもわかってくれるはずだから、その時まで言わないでいてほしいと、氷河に固く口止めされていたの。氷河の気持ちも あなたの気持ちもわかるから、私としても……」 アテナはアテナで、彼女の二人の聖闘士の板挟みになり、言うに言えずにいたのだろう。 瞬は彼女を責める気にはなれなかった。 「アテナも氷河も、僕のことを思って そうしてくださったのだということは わかっています……」 それでも、瞬は落胆せずにはいられなかったのである。 瞬を見詰めるアテナの瞳の憐憫の色が、更に深いものになる。 アテナは言いにくそうに、だが、瞬のために あえて、 「氷河のために何かせずにいられない あなたの気持ちはわかるわ。でも、その名の持ち主を探し出そうとするのは無駄なことだと思うわよ」 と言ってくれた。 「はい……」 瞬は、言いにくいことを――言わずにおこうと思えば そうもできたことを、あえて彼女の愚かな聖闘士のために言ってくれたアテナに感謝し、項垂れるように頷いたのである。 これまで、懸命に、エルピスという名の女性を探し続けていた。 だが、氷河が言っていた通り、その時間はすべて無駄だった。 無駄どころか。 それは氷河とアテナの思い遣りを無にし、氷河の期待を裏切るものだったのだ。 『片腕になっても戦えるように努力している自分を見ていれば、瞬は わかってくれる』と、氷河は 彼の仲間を信じてくれていたというのに。 自分の懸命の捜索が無駄だったことよりも、瞬は そのことの方が つらかった。 「私も何か方策はないか、当たっているのだけど……。エリスは仮にも神で、神としての私の力は、彼女に抗することができるものではないのよ」 「はい……ありがとうございます」 エリスがそんな甘い神ではないだろうことは、今では 瞬にもわかっていた。 エリスの呪いを解くには、名前もわからない ただ一人の乙女を、この広い世界のどこかから 探し出すしかない。 そして、おそらく それは、氷河の思い遣りさえ わからない愚かな聖闘士が一人、聖域の周囲を走り回っているだけでは、到底 成し得ない奇跡なのだ。 |