それから更に ひと月。
それでも諦めきれず、瞬は、エルピスを探し続けたのである。
氷河のために何もできない自分が 歯痒く、悲しい。
だから。
自分が 氷河のためではなく、自分のために エルピスを探し続けているのだということは、瞬自身にもわかっていた――自覚していた。
だからこそ 瞬は、聖域にいて 氷河と顔を会わせることが つらかったのである。
自分の無力と愚かが 自覚できているからこそ。
そして、瞬は、無駄とわかっていても、氷河のために何かをしている自分でいたかったのだ。

氷河の腕は、肩につながっているのが不思議に思えるほどに悪化していた。
まるで、たちの悪い害虫に取りつかれ、そこから枝枯れが起こっている樹木のように。
枯れた枝は、いつ幹から落ちてしまうか わからない。
おそらく、もって あと一両日。
その時を無為に待ち、その場面を黙って見ていることは、瞬にはできなかった。
だから、その日も 瞬は、エルピスを探すために聖域の外に出掛けていこうとしていたのである。
これほど自分の気持ちは沈んでいるのに、晴れた空が恨めしい。
教皇殿から空の下に出た瞬が そう思った時――瞬は、そこに氷河がいることに気付いた。

今にも朽ち落ちそうな右腕をもう一方の腕で押さえている 氷河の姿を見るのがつらくて顔を伏せた瞬の前に、氷河が差し出してきたのは、白詰草を編んで作った小さな腕輪だった。
「白詰草というのは、驚くほど強い花だな。乾燥した この聖域で、いくらでも見付けることができる。上手いものだろう? 片手だけで編んだんだぞ」
氷河が なぜそんなものを編み、仲間に差し出してみせるのか。
愚かな自分にも、氷河が何を訴えようとしているのかが わかるから、白く可憐な花で編まれた それを見て、瞬は泣きたい気持ちになったのである。
氷河の瞳は、打ち沈んでいる瞬の心とは対照的に、雲一つない初夏の空のように明るく晴れ渡っていた。

「片腕がなくなっても、俺は戦える」
まもなく片腕を失うことになるかもしれない氷河が、瞬を励ましてくる。
それが空元気でないことが――氷河の強さが――心弱い瞬を 一層 つらくした。
「失わずに済むなら、その方がいいでしょう。希望を捨てちゃ駄目だよ。諦めちゃ駄目。この腕輪が似合う優しい人が、きっと氷河を救ってくれるよ。きっと……きっと」
この期に及んで、自分が なぜそんなことを言い募るのか――言い募らずにいられないのか、瞬には わかっていなかった。
氷河に そう言い募っているアンドロメダ座の聖闘士が、おそらく もう間に合わないと諦めかけているというのに。
『諦めるな』と、『希望を捨てるな』と言っている当人が、これは無意味な意地にすぎないと わかってしまっているのに。
意味のない意地を張っている顔――自分の行為が無意味な意地にすぎないと知っている顔――を、氷河に見られたくなくて、氷河の前で泣いてしまいたくなくて、瞬は唇を噛みしめ、その顔を伏せた。

「きっと、氷河のエルピスが……」
益のない意地、意味のない慰め。
そうとわかっていても、瞬が言葉を重ねたのは、甘えだったのかもしれない。
愚かな意地を張り続ける仲間を、それでも氷河は許してくれる――と。
だが、氷河の優しさ、寛容にも限界があったらしい。
優しく気遣わしげだった氷河の目と声が、ふいに険しいものに変わる。
氷河は、低い声で、
「おまえは、なぜ俺が エルピスを探すことが無駄だと言っているのかが わかっていない」
「え……」
懸命に怒りを抑えようとしているのがわかる氷河の声に驚き、瞬が 俯かせていた顔を上げる。
そうして、瞬は 愚かな仲間を見詰める、優しいのに冷たい氷河の青い瞳に出会うことになった。

「たとえ、その女が見付かっても、俺がその女を愛し、その女も俺を愛してくれなければ、呪いを解く力は発揮されないと、エリスは言っていた。俺が その女に愛されるとは限らないだろう」
「ど……どうして? 氷河は、強くて優しくて綺麗だ。大抵の女の人は、氷河を好きになるよ。諦めちゃ駄目だよ」
氷河は、突然 何を言い出したのか。
当惑しつつ、瞬は 氷河に反駁したのである。

氷河が 彼のエルピスに愛されない――そんなことを、瞬は心配していなかった――案じたこともなかった。
その乙女を見付け出しさえすれば、彼女は すぐに恋に落ちるに決まっている。
“エルピス”は、氷河の運命の人なのだ。
たとえ そうでなかったとしても、氷河に愛を捧げられ、愛を求められて、その愛を拒むことのできる乙女がいるものだろうか。
いるはずがない。
瞬は、エルピスが氷河に出会った先のことは、毫も案じていなかったのである。
だが、問題は、エルピスの心ではなかったらしい。
そうではなかったらしかった。

「そうじゃない! そうではなくて、俺が その女を愛せないと言っているんだっ!」
それ以上 怒りを抑えていられなくなったのか、氷河が激した声で 瞬を怒鳴りつけてくる。
「氷河……」
びくりと身体を伏せた瞬を見て、氷河は一度 空を見上げ、深く吐息して、再び 瞬に視線を戻してきた。
「あ……いや。争いの女神が選んだ女だぞ。心も姿も醜悪な女に決まっているだろう」
「で……でも、もしかしたら、心も姿も美しい人かもしれない」
「あの女神が、そんな親切をするものか。まず、自分より醜い女を選ぶに決まっている。あの女神より醜いというのは、相当だぞ」
「相当……って……」

エリスは、姿は美しい女神だった。
ただ その瞳が、ぞっとするほど酷薄な輝きをたたえているだけで。
姿はともかく、彼女より冷たい心を持つ人間などいるはずがない。
「心が美しければ、愛し愛されることはできるよ。氷河を救いたいと思ってくれる人を、氷河が愛せないはずが――」
「それは無理だ」
「どうしてっ」
エルピスを探し出すことを諦めるのならまだしも、愛することを 諦めると、氷河は言うのか。
なぜ そんなことが言えるのか――できるのか。
氷河の断言に、瞬は 唇を噛みしめた。
氷河が、そんな瞬に、今度は 激したところのない声で――穏やかな声で、その訳を告げてくる。
「俺にはもう、心に決めた人がいる。その人以外の誰も、俺は愛せない」
「えっ……」






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