その日食は、通常の日食とは まるで様子が違っていた。 通常の日食ならば、たとえ その全体が月に隠されてしまっても、せいぜい数時間で再び太陽が地上に顔を出すのに、その日 起こった日食では 太陽に重なった月はいつまで経っても移動しなかったのだ。 月が太陽を完全に覆い、コロナの中にプロミネンスが幾つも見える状態が いつまでも続く。 太陽と月が動かない。 それは、夜も来ないが、夜明けも来ないということ。 その異様な日食は、ギリシャ中を薄闇の中に閉ざしてしまったのだ。 大地に 海に ふんだんに降り注いでいた陽光が遮断され、地上の気温は徐々に低下。 このままでは、ギリシャだけでなく地上世界全体が冷たく冷え、死の世界と化してしまうだろう。 そして、その最悪の事態は、人智によって回避することは不可能である。 当然、ギリシャの民は、神に救いを求めることになった。 人々は、なぜ こんなことになったのか、どうすれば太陽は再び地上を照らしてくれるようになるのかを、ギリシャ各国の神託所で 神に神託を求めることになったのである。 それら すべての神託所で一斉に、正体の知れぬ神から同じ神託があったのは、異様な日食が始まってから2日分の時間が過ぎて後。 たった2日間といえば、たった2日。 陽が沈んでいないという意味では1日も終わっていないのだが、その時間は、ギリシャのすべての国の民が恐慌状態に陥るには十分な時間だった。 その神託が実行に移されなかったら、おそらく恐怖に狂ったギリシャ中の人間たちが起こす暴動によって、エティオピア王家は 地上世界から消滅していただろう。 ギリシャ各国の神託所に下った神託。 それは、『海の神の怒りを鎮めるために、かつてエティオピア王国の王女アンドロメダが その身を生贄として海獣に捧げたように、死の国の王の心を和らげるために、エティオピア王国の王子を生贄として神に捧げよ』というものだったから。 エティオピア王家に否やを唱えることは許されなかった。 ただちに神託を実行に移せという、ギリシャ中のすべての国からの矢の催促。 何より 自国と自国の民を守るために、エティオピア王国の国王は その神託に従わないわけにはいかなかったのだ。 生贄となるべき王子を、王が、国民が、どれほど愛していても。 エティオピア王家に王子は一人しかいなかった。 まだ10代半ば。 美しく、心優しく、これまでに神の怒りを買うような どんな罪も犯していないと、王子の周囲の人間なら誰もが断言できる 清らかな王子。 もし この異様な日食が神の怒りによるものであるのなら、王子は他の人間たちが犯した罪を その身一つに負わされ、すべての罪人の身代わりとして その身を神に捧げるのだと、誰もが思わずにいられないような王子。 実際、誰もが そうなのだと考え、ギリシャの人々は 己れが かつて犯した様々の罪を悔やんだのである。 だが、世界は救われなければならない。 ただ一人の罪なき者への同情心のために、地上世界と そこに生きるすべての人間の命が滅びることがあってはならない。 エティオピアの王子は、神託が下って まもなく、かつて王女アンドロメダが繋がれたと言い伝えられている犠牲の岩場に鎖で繋がれることになったのだった。 入江の東側の岬では、エティオピア国王である 王子の兄がエティオピアの兵を従えて、哀れな弟を見守っている。 西側の岬には、この儀式の遂行を確かめるためにやってきたギリシャ各国の王、領主、その使者たちの姿がある。 生贄の前に現れるのは、どんな魔獣か、あるいは怒りに燃えた神なのか。 それは、これから この儀式によって命を奪われることになる当の生贄の瞬にも わかっていなかった。 そのため 瞬は、実際に我が身を犠牲の岩場に繋がれた今この時になってもまだ、自分の内に具体的な恐怖を生むこともできずにいたのである。 瞬は、その魔獣なり神なりが現われた時、兄が大人しく 弟の命が消え去る様を見ていてくれるだろうか、よもや 剣を持って 逆らってはならない者に打ちかかっていくような無謀に及ぶことはないだろうかと、それだけを案じていた。 (エティオピアのために、ギリシャのために、この世界のために――兄さん、動かないで……) 瞬は、祈るような気持ちで そう思っていたのである。 一般の民は浜に近付くなという命令が行き渡っているため、犠牲の岩場に繋がれた瞬には、エティオピアの王と その兵、各国の代表者たちの姿をしか確かめることができなかった――死を前にした瞬が最も会いたい人の姿は、そこにはなかった。 そのことに、瞬は 安堵し、同時に 軽い落胆を覚えていたのである。 自分の死の様を見られたくはない。 だが、最後に一目だけでも会いたかった――と、瞬の胸の内には矛盾する二つの思いが去来していた。 こんなことになるとは、ほんの数ヶ月前までは考えてもいなかった。 数ヶ月前まで、瞬は、自分を この地上で最も幸福な人間だと信じていた。 数ヶ月前、この世で唯一人の肉親でありエティオピア国王でもある兄の厳命によって 氷河との別れを余儀なくされるまでは。 こんな運命が待ちうけていたのなら、二人のために、あの別れは結果的によいことだったのかもしれない。 離れて過ごした数ヶ月の時間は、エティオピアの王子の死によって氷河が味わうことになる彼の悲しみを深めないことに、少しは役立ったのかもしれない。 瞬は、自らを そう慰めて、その唇で寂しい微笑を作ったのだった。 |