本来であれば、その日の正午。その時刻。
犠牲の岩場に繋がれた生贄の姿を認めたのか、この4日間 ギリシャの上で微動だにしなかった太陽が(あるいは月が)、ゆっくりと その動きを再開した。
監視者、哨戒者、傍観者たちがざわめく中、陽光が少しずつ地上を照らし始める。
その光の中から、太陽を背にして 有翼の青ざめた馬が現われたのは、太陽が半ば以上 その顔を地上の人々に見せるようになった頃。
太陽を直視することは もはや不可能になっていたので、地上の人間たちの中に、その馬がどこから飛来したのかを確認できた者はいなかった。

馬の背に、髪も身に着けている服も おそらく瞳も、漆黒の男が跨っている。
やってきたのは巨大な海獣ではなく、人間と同じ姿形を持った若い男だった。
しかし、まばゆい光の中に浮き上がる その黒づくめの出で立ちは不吉なものにしか見えない。
神か、死の国の使いか。
その姿を見た すべての人間がそう疑っただろう。

有翼の馬は、陽光が満ち出した空を二度三度 旋回し、やがて生贄が繋がれている岩場に急降下していった。
馬上の男が、手にしていた剣を一閃し、瞬を縛りつけていた鎖を断ち切る。
そのまま 再び 空に舞い上がり、次に岩場に下りてきた時、馬上の男は 片手で瞬の腰を抱きかかえ、馬の背に その身体を引き上げてしまった。
この漆黒の男は、哀れな生贄を救うためにやってきた英雄ペルセウスなのか、海獣の化身なのか。
確かめる時間は、地上に立つ人間の誰にも与えられなかった。
それはごく短い時間の出来事で、しかも 眩しい光の中で行われたことを確かめるには、地上の人間たちの目は 日食の作る薄闇に あまりに慣れ過ぎていたのだ。
これまで何千年、何万年という長い年月、それこそ無限に繰り返されてきたように 太陽が西への移動を始めた時、犠牲の岩場に瞬の姿はなく、エティオピアの王子が どこに連れ去られたのか――もしかしたら、その場所は巨大な魔獣の すみかなのかもしれない――その行方はようとして知れなかった。






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