地上に光が満ちあふれている。 この数日間 世界を覆っていた薄闇は消え、空も海も大地も明るく暖かい。 瞬を乗せた有翼の馬は、空の高みに飛び上がり、やがて岬にいた兄の姿も見えなくなった 明るさに安堵したためか、緊張が途切れたせいか、眩しさに目を開けていられなくなったのか――自分でも その理由がわからないまま、瞬は、有翼の馬の背、漆黒の男の胸の中で、しばらく意識を失っていた。 青ざめた馬が どちらの方向に飛び、どれほどの時間 空を駆けていたのかも わからない。 瞬と漆黒の男を乗せた有翼の馬が下り立ったのは、広く美しい庭を抱えた 壮麗な城の前だった。 いったい ここがどこなのか、まるで見当がつかない。 ギリシャの内なのか、あるいは、人間には足を踏み入れることのできない天上界なのか。 そんなことすら、瞬には判断することができなかった。 瞬の目の前に そびえる城の外観も、人間の権力者の居城のようでもあり、神の住まう神殿のようでもある、不思議な様子をたたえていた。 国土が広大で 気候にも資源にも恵まれたエティオピアは豊かな国で、その王城は堅固で豪華だったが、その城以上に壮麗な城の姿は、瞬も嘆息を禁じ得ないほど。 しかも、まるで つい最近建てられたばかりのように真新しい。 いったい どこから水を引いてきているのか、広い庭には色とりどりの花が咲き、庭の あちこちで健やかな木々が涼しげな木陰を作っていた。 それが尋常の城でないことは、考えるまでもないことだった。 建築様式が 瞬の知らないものだということもあったが、これほどの規模の城で、見張りの兵はおろか、使用人らしき者の姿が一つもないのだ。 天上界の城か、地上に建つ城であるにしても神の手になるもの。 少なくとも魔獣が落ち着いて食事をとるための場所ではない。 馬上の男は、生贄を貪り食らうために 瞬をここに運んできたのではなさそうだった。 これほど美しい城に暮らす者が、食べ物に不自由しているとは考えにくい。 では、何のために? 美しい城の前、美しい庭の中で、瞬は、生贄をさらってきた男の真意を図りかね、自らのこれからを懸念することになったのである。 瞬を城内に招き入れた漆黒の男は、白い大理石の柱と壁によって作られている部屋の中で――そこもまた、生活の場と祈りの場が混合したような部屋だった――初めて 彼の生贄を正面から見詰めてきた。 漆黒の髪と、瞬が思っていた通りに漆黒の瞳。 瞬より背が高く、瞬が これまでに見たことのない若い男。 その貌は端正の極みで、もし美の神に 人間を(あるいは神を)創り出す力があったなら、こういう造形を選んで作るに違いないと、瞬は容易に思うことができた。 完璧すぎて、人間味は全く感じられなかったが。 「あなたは神……なんですか。それとも――」 それとも人間なのかと問うことは 不敬になるのではないかと案じて 言葉を途切らせた瞬を、漆黒の男は 幼い頃の思い出を懐かしんでいるように感じられる眼差しで見おろし、見詰めてきた。 完璧すぎて冷たく感じられる 彼の貌の、瞳だけが温かく優しい。 瞬の質問には答えずに、彼は、『ここで、ひと月の間 共に暮らしてほしい』と、瞬に命じてきた。 言葉は要請のそれだったが、瞬には彼を拒むことは許されていないのだから、やはり それは 要請の形をした命令だったろう。 無論、瞬に、彼の命令を拒否する権利はない。 「この城で、ひと月だけ一緒に暮らす? それは何のため? それでどうなるんですか」 姿は神だが、心は人間。 そんな気がして、瞬は質問を重ねた。 望んで得られぬ美しい姿をした男が、意外なことを言ってくる。 「俺は、ある事情で、姿を変えられてしまったんだ。俺の本来の姿はこうではない」 「姿を変えられた? 呪いをかけられたんですか?」 「呪い? そうだな。そんなものかもしれない」 「僕をここに連れてきたのは、もしかして、あなたにかけられた呪いを解くために、僕に何かできることがあるから? それを期待してのことなんですか?」 呪いでこれほど美しい姿を与えられるなら、むしろ その呪いを望む人間は少なくないのではないか。 美しくなる呪いを解くことを望む人間がいるものだろうか。 瞬は、不思議な気持ちで問い返したのである。 漆黒の男の答えは、瞬の疑念以上に不思議なものだった。 「おまえの愛が、俺には必要なんだ。とはいえ、俺はそれで俺は元の姿を取り戻したいわけじゃない。元の姿に戻れるのなら、それに越したことはないが、俺が欲しいものは他にある」 「元の姿を取り戻したいわけではないの? 確かに、今のあなたは とても美しい姿をしていますが」 瞬が言うと、彼は 本当に自身の外見には興味がなさそうな様子で、彼の考えを口にした。 「たとえば、大空を自由に舞うことのできる鷲や 大地を力強く駆ける四つ足を持った狼が、親からもらった姿を奪われて人間に姿を変えられてしまったら、彼等は それを美しいと思うだろうか」 「あ……考え無しなことを言いました。ごめんなさい」 確かに、彼の言う通りである。 彼の姿を 完璧と言っていいほど美しいとは思うが、瞬は彼の姿を自分のものにしたいとは思わなかった。 亡き両親や兄に愛してもらった自分の姿を失いたくはない。 瞬が自身の浅慮を謝ると、彼は なぜか瞬の謝罪に うろたえる素振りを見せ、微かに頭を横に振った。 「いや。謝らなくていい。謝らないでくれ。俺がおまえに迷惑をかけたことはわかっている。矛盾したことを言うようだが、俺は自分を含めた人間の外見には興味がない。そんなことは どうでもいいんだ。ついでに言えば、俺は神ではない。ごく普通の人間だ」 「あんなことをしてのけた人が、神でないにしても、普通の人間であるはずが……」 そう言いかけて、瞬は、初めて ある可能性に思い至ったのである。 動き始めた太陽の中から現れた彼の姿、そのタイミングが あまりに劇的だったので、あの日食は この人が起こしたものと思い込んでいたが、実は あの日食を起こした者は 他にいた――それは 彼以外の何者かだった――という可能性に。 そうであるなら、彼が人間だということも あり得ないことではない。 彼が 神の庇護を与えられた普通の人間である――ということも、あり得るのだ。 彼が瞬に語ってくれた彼の事情は、まさに そういうものだった。 「俺は普通の人間だ。俺にはどうしても手に入れたいものがあって――ある日、万神殿に行って祈ったんだ。俺に、それを与えてくれと。おそらく、それは身の程をわきまえない、俺には過ぎた願いだった。神が――すべての神を祀る万神殿でのことだから、どの神なのかは 俺にはわからなかったが、俺の祈りに応じる声があった。その声は、既に決まっている運命を変えたい人間は、相応の代償を神に差し出さなければならないと言った。そうすれば、俺の願いを叶えてやらないこともない。運命を変えることまではできないが、その機会を与えることはできる――と。だが、代償を差し出すも何も、俺は無一物で、自分の命と肉体以外に何も持っていない男だった。そう告げた俺に、その声は――」 彼が 一度 言葉を途切らせたのは、それが瞬に告げていい事柄なのかどうかを迷ったからのようだった。 “それ”は、既に彼の所有に帰すものではなかったから。 「その神は、俺が神に差し出す代償は それで十分だと言った。俺自身で十分。俺の姿、俺の名前、俺の素性には、大きな力があると」 「姿や名前や素性に力がある……? それはどういうこと?」 「さあ……それは俺にも よくわからない。ただ、あの声は、俺が ある重要な人物に影響を与えることができるとか、そんなことを言っていた。俺にはそれが誰なのかわからないんだ……。ともかく 俺は、利用の仕方がわからない力より、俺の望みを叶えることの方が重要だったから、多少 悩みはしたが、その条件を受け入れ、俺の姿と名前と素性を、俺の望みを叶える代償として、その神に差し出したんだ。代わりに与えられたのが この姿だ。あの声は、おまえを さらってきても追っ手のかからない状況を作るから、この姿で おまえをさらってきて、ここで おまえと暮らすようにと、俺に言った。ここで おまえと暮らし、おまえの愛を手に入れることができたら、俺は俺の望みを叶えてもらえることになっている」 奇妙な話だ――と、瞬は思ったのである。 日食を引き起こし、ギリシャ全土を恐怖に陥れるほどの力を持つ神なら、たとえ一国の王子といえど、人間を一人 さらってくることなど、苦もなくできるはず。 あれほどの力を持つ神にできないことは、せいぜい人の心を変えるくらいのことだろう。 いったい その神は何のために これほど手の込んだ真似をしたのか――させたのか。 そもそも その神の正体は何者なのか。 瞬は首をかしげた。 「あなたは、元はどこかの国の国王とか王子とかだったの? それで、誰か重要な人への影響力を持っているということ?」 「それはない。俺は もともと無一物だったと言ったろう。俺が万神殿で 俺に与えてくれと祈ったのは、国土と国王としての権力――エティオピア国王に匹敵する力だ。おまえの愛を得ることができたら、俺には この城と周囲の領地が与えられ、その領地の王になれることになっている」 「兄さんに匹敵する力?」 この城と領地というが、いったいここはどこなのか。 エティオピア国王に匹敵する力を手に入れて、彼は その力をどうしようというのか。 そして、なぜエティオピアなのか。 強大な力を持つ正体のわからない神、自分の姿や名前を捨ててでも権力が欲しいという人間。 瞬には わからないことばかりだった。 「俺には、おまえの愛が必要なんだ。ここに留まってくれ。ここでの暮らしに不自由はないようにする。この姿で おまえの愛を得ることができれば、俺は 俺の望みを叶えることができる」 瞬には 本当に わからなかったのである。 彼は、彼の元の姿に戻りたいわけではないらしい。 そして、欲しいものは国王としての権力。 権力を望む者がいること、その気持ち自体は、瞬にもわからないでもない。 たとえば、権力に理不尽に虐げられた経験を持つ者は、その権力への報復のために それを欲することもあるだろう。 しかし、そのために、愛が必要とは。 エティオピア国王に匹敵する力が欲しいと言い、エティオピア王家の王子を略奪といっていい やり方で さらってきた上、愛を 権力を手に入れる道具のように言う、この男。 そんな支離滅裂なことをする人間の目が優しいこと。 彼の目が、権力欲に支配されている人間のそれには見えないこと。 それらのことが瞬を戸惑わせた。 何もかもが矛盾しているのだ、この人は。 そう考えて初めて、瞬は、自分が この人の名を知らされていないことに気付いたのである。 「あなたの お名前は? 僕は、あなたを何て呼べばいいの」 「俺の名は、神にくれてやった。だが、そうだな。名は必要か。存在しないものなり、愚か者なり、適当に呼んでくれ」 「そんな……。あ、じゃあ、黒色というのはどうですか」 「それでいい。好きに呼べ」 『大空を自由に舞うことのできる鷲や 大地を力強く駆ける四つ足を持った狼が、親からもらった姿を奪われて人間に姿を変えられてしまったら、彼等は それを美しいと思うだろうか』 そう考える人が、親から与えられた姿や名前には全く頓着していない。 愛を、権力を得るための道具としか見ていない。 瞬には、彼という人間が 理解できなかった。 |