瞬がメランという名をつけた漆黒の人間は、その約束通り、瞬に生活面での不自由はさせなかった、
やわらかい寝台のある豪奢な部屋、神々が身にまとうものといって間違いないだろう肌触りの上質な服、誰が準備しているのか わからない贅沢な食事。
神が 彼に力を貸していることは明白。
そして、彼が瞬の愛を必要としているという話も 事実のようだった。
神殿にも似た城に 瞬を さらってきた その日から、瞬の愛を手に入れるために、彼は彼なりの“努力”を開始したのだ。


「どうしたら、俺は おまえの愛を得られるだろうか」
わざわざ瞬の部屋まで やってきて、そんなことを尋ねるのは、彼が人に愛されたことがないからなのだろうかと、瞬は疑ったのである。
そんなことがあるはずがないのに。
彼の眼差しの優しさは、どう考えても、人を愛し 愛されたことのある者のそれだった。
「あなたの言う愛というのは、どういうものなの」
「心と身体を 俺に与えてもいいと思うような愛だ」
それは恋という名の愛なのではないか――と反問しかけて、瞬は 慌てて その言葉を喉の奥に押し戻したのである。
『そうだ』と答えられてしまったらどうすればいいのか わからなかったから――対処に困ることになりそうな気がしたから。

「それは無理だと思います」
「なぜだ」
「だって、そういうことは、愛している人とでないとできない」
「そうだ。そういう愛だ。俺が欲しいのは。だから、俺を愛してくれと言っているんだ」
「……」
彼の主張は、筋が通っているのか、本末転倒なのか。
瞬は、自分まで、考えが こんがらがってしまいそうになった。

「ごめんなさい。愛って、一緒にいて、同じ時を過ごして、言葉や行動で互いの考え方や優しさに触れ合って、確かめ合って――そういうことによって自然に生まれてくるものなんじゃないんですか。愛そうと思って愛する人はいない。愛は義務でも仕事でもないでしょう」
「俺の愛を示せば、おまえは俺を愛してくれるようになるか」
「……」
瞬にはよくわからなかった。
しばらく考え込んでから、僅かな逡巡と共に、彼に答える。
「それが友人同士でも、肉親の間のことでも、恋人同士でも、愛というものは 相手の幸せを願う心なんじゃないでしょうか」
「実に尤もな意見だ。では、おまえの幸せは」
「僕の幸せは――今は、故国に戻ることです。国と世界が平和で、民が幸せでいること、それを見て確かめることです」
「それは叶えてやれないんだ。ここにいてくれ」

あなたの言っていることは矛盾している。
本末転倒で、支離滅裂。
そもそも あなたは、自分を愛してくれと求めている相手を 愛していないではないか――。
そうしようと思えば、瞬は いくらでも、彼を責め、なじることができた。
にもかかわらず、瞬が そうすることができなかったのは、彼が愛を得たいと望む人の望み――彼が愛する人の望みではない――を叶えることができないと告げるメランの目が つらそうで――あまりに つらそうで、彼が悪い人には思えなかったからだった。
地上をあれだけの混乱に陥れ、瞬の意思を無視して、ここに さらってきた人。
それでも――彼の苦しげで つらそうな瞳を見てしまうと、それも やむを得ないことだったのだろうという気がしてくるのだ。
愛を得たい人を喜ばせることのできない彼が、かわいそうに思えてくるのだ。

「なぜ 宝石や綺麗な服や美味い食べ物を望んでくれないんだ」
「そういうものは、僕は欲しくないの」
「何が欲しいんだ」
「僕の幸せと同じだよ。国に帰りたい。国と国の民の無事を この目で確かめたい。兄の許に帰って、兄に僕が生きていることを知らせ、安心させたい」
「それ以外で。ここにいて叶うことを望んでくれ」
「……」
これでは どこまでいっても堂々巡りが続くばかりである。
彼は 彼の望むものを手に入れるまで、彼の囚人を解放する気がないのだ。
(僕なら――氷河が自由になりたいと望んだら、すぐに自由にしてあげるのに。そして、王子という身分や暮らしなんか捨てて、氷河についていく。氷河が一緒に来てくれって言ってくれさえしたら)

だが、実際には 氷河は、瞬に そう言ってはくれなかった。
瞬には何も言わず、黙ってエティオピアの城を出ていってしまった。
おそらく、瞬を王子の身分に留めおくために。
瞬に何不自由のない 王子としての暮らしを続けさせるために。
それが、瞬の幸せなのだと信じて。

人は、自分が現に手にしているものより、手に入れることができないものの方に価値があると考えるようにできているのだ。
権力を持たないメランは それを何より欲し、彼と同じように 高い身分を持たない氷河は、王子としての境遇を瞬に捨てさせることは 瞬を不幸にすることだと考えた。
逆に、王子という地位にある瞬は、ただ 愛する者と共にいることだけを願う。
氷河を失って、その思いは一層 強くなった。
人間とは、そういうものなのだ。

(氷河……)
その名を思い出し、その面影を思い出した瞬は、自分に欲しいものが もう一つあることに気付いた。
望めば ますます氷河に向かう兄の怒りを激しくするだけだろうと考えて、ずっと胸の奥に潜ませていた願い、口にすることを 自らに禁じていた願い。
だが、今 ここに兄はいない。
言っても無駄だろうと思いはしたが、今 瞬は その願いを声に出して 誰かに訴えたかった。
『僕の幸福が何なのかを誰かに知ってほしい』
その思いに突き動かされて、瞬は その願いを口にしたのである。
「氷河に会いたい」
「なに?」
瞬の願いを聞いたメランが 眉根を寄せる。
瞬は、その願いを もう一度 繰り返した。

「氷河に会いたい。氷河をここに連れてくることはできる?」
「な……何だ、その氷河というのは……」
メランが、なぜか その名に動揺したように 声を震わせて、瞬に尋ねてくる。
完璧な貌を持つメランより、瞬には美しく思える人――その面影を脳裏に甦らせて、瞬は彼に氷河を語った。
「氷河は、僕の幼馴染みなの。小さい頃からずっと一緒だった。金髪で、綺麗な青い瞳をしていて、優しくて、泣き虫の僕をいつも庇って守ってくれた。僕は氷河が大好きで、でも、兄さんが、僕と氷河が親しくすることを快く思わなくて……」
兄と氷河と、自分の愛する人たちの幸福が同じものであったなら、どんなにいいか。
そうでなかったことが悲しくて、瞬は顔を俯かせた。

「なぜ、おまえの兄は、おまえと その男が親しくすることを快く思わなかったんだ」
「氷河の生まれが卑しいから……って。で……でも、そんなことないんだよ!」
与えられた運命、命という運命。
それは その運命のもとに生まれた人間が責任を負わなければならないことだろうか。
瞬には そう思うことはできなかった。
「生まれが卑しい人なんていない。僕はたまたまエティオピアの王子に生まれたけど、氷河はそうじゃなかった。ただ それだけのことだもの。なのに、兄さんは、僕があんまり氷河と親しいのはよくないって言って、一緒にいるのを禁じて、氷河を城から追い出してしまった……」
「おまえの意思を無視して、おまえを さらってきた俺が言っていいことではないだろうが――横暴な兄だな」
メランの言葉に ためらいなく頷くことができなかったのは、その“横暴な兄”もまた彼の弟の幸福を願ってくれていることを、瞬が知っていたからだった。

「僕、氷河を捜しに行きたかったんだけど、城を出ることを禁じられて……」
氷河のことを話してしまったのは間違いだった――と、メランに氷河のことを語っているうちに、瞬は気付いた。
氷河と共に いられなくなってからの寂しく悲しい日々のことが思い出されて、勝手に瞳に涙がにじんでくる。
だが 瞬は、涙も 氷河を語ることも やめることができなかった――自分の意思では止められなかった。
「僕が悲しかったり寂しかったりした時、誰より早く そのことに気付いて、僕を慰めて励ましてくれたのは氷河だった。兄さんは いつも国王としての仕事が忙しくて、あまり僕の側にはいられなくて、でも、それも氷河がいてくれるから、僕は平気だったんだ。氷河がいなくなってからは、毎日が寂しくて悲しくて――なのに氷河が来てくれなくて――。僕が いちばん氷河に側にいてほしい時に、氷河が来てくれなくて……」

膝の上に置いていた手の上に 涙の雫が落ちて、その弾みで 雫が更に幾つかの小さな粒になる。
涙で濡れた手の甲で、瞬は 自分の目の中に残っていた涙を拭い、メランに向き直った。
「愛って、そういうふうに自然に生まれるものでしょう。僕は氷河が大好だった。今でも大好きなの」
「……氷河はもっと、おまえを好きだろう」
「え……」
メランに思いがけないことを言われて、瞬は驚いた。
瞬に対する氷河の愛を、メランが認める。
それは、言ってみれば、敵を利する行為である。
氷河がいなければ その愛は自分に向くかもしれないと考えて当然の立場に、メランはいるのだから。
彼は、不当に人を貶めることをしない人間のようだった。
瞬は、メランがそういう人間であることを嬉しく思った。
彼は氷河を否定しない――。

「僕が氷河を好きでいる気持ちより? そんなの、あり得ないよ。僕はほんとに とっても氷河が大好きなんだから」
「氷河は、おまえを好きでいる。おまえを大切に思っている。氷河を思う おまえより強く」
「あ……」
自分以外の誰かに そう言ってもらえることが、これほど嬉しく力づけられることだったとは。
それは、瞬が これまで経験したことのない種類の幸福だった。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しい。そうだったら嬉しい。氷河に会いたい。その願いも駄目? 叶えてもらえない? 僕は ここにいるから」
「それは……俺は特別な力を持つ神ではないし、氷河は どこにいるかわからないんだろう? 連れてこれるものなら、そうしたいが」
「……」

メランは、悪意ある企みがあって、そんなふうに言っているようには見えなかった。
氷河を この場に連れてこれるものなら そうしたいと、心底から そう思ってくれているように、瞬の目には見えた。
彼は決して悪い人間ではないのだ。
瞬を悲しませよう、苦しめようという考えは、全く抱いていない。
ただ、瞬に ここを出ていかれるわけにはいかないという事情があるだけで。
ならば、自分も彼と彼の望みに対して 真摯に向かい合おうと、瞬は思ったのである。
自分の心も身も与えていいと思うような愛が誰のものなのかをメランに告げ、彼の望みを叶える別の方策――たとえば瞬の兄の力を借りて――を、二人で考えよう。
瞬は、そう 彼に提案しようとした。
――が。






【next】