「心も身も与えていいと思う愛は、僕のそういう愛は――」
だが、瞬は、言おうとした言葉を言い損なってしまったのである。
その時 突然――本当に突然――瞬が 口にしようとした名の持ち主の姿が瞬の目の中に飛び込んできたせいで。
窓の外に金髪の男が佇んでいた。
その男が、部屋の中にいる瞬を じっと見詰めている。
瞬は目をみはった。
「氷河……」
見間違えようもない、懐かしい その姿。
瞬の驚きは すぐに歓喜に変わった。

じっとしていることができず、瞬は掛けていた椅子から立ち上がり、薄く削った天然ガラスが嵌めこまれた窓の側に駆け寄った。
黒味を帯びたガラスの向こう。
間違いなく、それは氷河だった。
嬉しくて――嬉しさに我を忘れ、瞬はメランを振り返った。
彼なら この喜びを自分と共有してくれると――そんな可能性など あるはずがないのに――その時、瞬は疑いもなく信じていたのである。
「氷河だ! 僕が連れ去られたことを知って、氷河が 僕を捜しに来てくれたんだ!」

氷河という、瞬の愛を得たいと望む者には邪魔な存在の話を 穏やかに聞いてくれていたメラン。
彼は、瞬が窓の外に見い出した男の名を聞いて、急に取り乱し始めた。
頬を青ざめさせ、その唇は微かに痙攣している。
「あり得ん……氷河だと?」
「氷河だよ! ほら見て、あそこ! 銀木犀の木の横に」
「あれが氷河であるはずがない」
瞬が指差した先を一瞥はしたが、そこに佇む人間の姿を ろくに確かめもせず、彼は瞬の言葉を一蹴した。
だが、もちろん、瞬にはメランの否定など無意味だった。
彼は氷河を知らないのだ。
氷河を知らない人物の判断など 聞くに値しない。
瞬は、氷河を知っていた。

「氷河……氷河だ!」
氷河の側に行くために、瞬は部屋の扉に向かって駆け出した――駆け出そうとした。
その手を、メランが素早く捕え、掴みあげる。
「違う! 行くな! ここは神の領域、人間である氷河が入れるはずがない!」
「氷河だよ!」
「違うと言っているだろう!」
瞬を引きとめようとして発せられる声と言葉が、ふいに 怒りそのものでできた それに変わる。
激しい怒声に、瞬は びくりと身体を震わせた。
まるで、声で殴りつけるように鋭く荒々しく険しい声。
漆黒だった彼の瞳が、今は 燃え盛る石炭のように赤く透き通っている。
つい先ほどまで 氷河の愛を認め 賛助しているようでさえあったメランの豹変に、瞬は、この場にいるはずのない氷河の姿を見い出した時より驚いていたかもしれなかった。

「俺が正体を探ってくる。おまえはここにいろ。ここを動くな」
メランの激昂に身をすくませていた瞬を、ぞっとするような冷たい目で制し、怒りに急かされ 同時に 怒りのせいで重くなっているような足取りで、メランが部屋を出ていく。
メランの これほどの激昂を見るのは、これが初めて。
略奪者でありながら、彼は これまで瞬に対して、どこか へりくだった態度を保っていた。
“氷河”の出現は、彼に それほどの怒りを もたらすものだったのだろう。
その彼の『ここを動くな』という厳命。
その言葉に逆らったら、彼は どれほどの怒りを示すことか。
しかし、メランの怒りに燃えた冷たい目を 恐いと思う気持ちより、氷河の側に行きたいという気持ちの方が強い――強すぎる。
『ここを動くな』というメランの命令に従うことができず、瞬はメランのあとを追いかけた。






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