その日以降、彼は 腫れ物に触るように瞬に接し、瞬は ぎこちなく 彼の親切に応じるだけになったのである。
気まずい空気の中、日々は ただ流れ、メランの端正な貌は 日を追うごとに青ざめていった。
そうして、ひと月。
瞬がメランの城に運ばれてきてから ちょうど ひと月が経った日の夕暮れ、メランは 彼の城の最上階にある露台に瞬を呼び、静かな声で瞬に言ったのである。
「故国に――兄の許に帰れ。俺は、俺の望みを叶えることを諦めた。ひと月という期限のうちに、俺はおまえの愛を得ることができなかった」
と。

おそらく神の建てた城の、人間が立つことのできる最も高い場所。
広い庭園の向こうに 人家のない野が続き、更にその先には 瞬の知らない山々の輪郭が見える。
その山の端に、夕日が姿を隠そうとし始めていた。

「期限? 期限って、何の期限なの。僕の愛を得られないと、あなたはどうなるの」
期限。
この城の庭に氷河が現われた時、そういえば彼は、ひと月の間 この城は自分のものだと言っていた。
望みを叶えるための彼の試みには 期限があった――のだろうか。
今日の太陽が沈みかけている。
不吉な日没――。
理由のわからない不安にかられながら、瞬はメランに尋ねたのである。
メランが、抑揚のない声で答えてくる。

「死ぬ。俺に与えられた期限はひと月だけだった」
「死ぬ……って……」
そんな重大なことを、落ち着き払った声と目で言わないでほしい。
なぜ そんな重大なことを最初に知らせておいてくれなかったのか――。
瞬の頬からは血の気が引いていった。
彼は死んでいい人ではない。
それほどの罪を犯してもいない。
なぜ 彼が死ななければならないのだ――。

瞬は、彼の両腕を掴み、すがり、焦り震える声で彼に問いかけた。
「ほ……他の誰かじゃ駄目なの? 僕以外の誰かの愛じゃ――」
「他の誰かの愛などいらない」
こんなふうに、すべてを諦めたような目をしないでほしい。
なぜ そんな静かな眼差しを たたえていられるのだ。
命が――自分の命が、まもなく失われるかもしれないというのに。

「今日の太陽が沈めば、約束の ひと月が終わる。俺は、おまえの愛を手に入れることができなかった。俺の試みは失敗に終わった。俺は死ぬしかない。それが神との約定だった」
「そんなの、駄目だよ! 絶対に駄目! あ……ね、僕の愛は氷河のものだけど――でも、僕、命なら あなたにあげられるよ! それじゃあ 駄目なの?」
「瞬?」
瞬のその言葉を聞いたメランが目を みはり、彼の虜囚の顔を見おろす。
それは彼には意想外の提案だったのだろう。
メランと目が会うと、瞬は その瞼をゆっくりと伏せた。

「ひと月前に……この城の庭で会った氷河は、あれは きっと幻だったんだ……。そうでしょう? でなければ、あれは 変わってしまった氷河だった。あなたは、そのことを知っていた。だから あなたは氷河を見て、あんなに激昂したんだ。あの氷河は、僕の氷河なら絶対に言わないようなことを言っていた」
「……」
メランは、瞬に答えを返してこなかった。
だが瞬は、『違う』という答えが返ってこないだけで十分だったのである。
『そうではない』という答えが返ってこなければ、“そうだった”ということなのだから。

「僕の愛は氷河だけのものだなんて言って、僕に愛されてるって自信満々で――。僕の氷河が、あんなこと言うはずがないんだ。僕は氷河を大好きだったけど、それが恋だと気付いたのは、氷河がエティオピアの城を追い出されてからで、氷河に僕の気持ちを告げたことはなかった。僕の氷河は、僕が兄さんやエティオピアの民を愛していることを知ってる。自分だけが僕に愛されてるなんて、絶対に思わない。あれは氷河じゃなかった。僕の氷河は もうどこにもいないんだ。僕はきっと、もう二度と僕の氷河に会うことはできない……」
「瞬……」
自身の命が終わりかけているというのに、メランの瞳は 瞬の心を気遣ってくれていた――慈しみをたたえているようでさえあった。
彼は、彼が愛を求めている相手を愛してもいない――そう思っていたのに。
本当はそうではなかったのだ。
もしかしたら彼は、それを 改めて告げるまでもないことだと思っていたのかもしれない。
愛を求める人間が その相手を愛しているのは、彼にとっては当然のことだったから。

「僕の氷河は、僕の氷河でなくなってしまった。僕はもう、生きていても仕方がないの。せめて、僕の命で あなたを生かしたい。命には愛ほどの価値はないの? そんなことはないよね? 命なら、僕はあなたにあげられるよ!」
「できん。そんなことは。俺より、おまえの方に生きる価値がある」
「諦めないで……! 生きていれば――生きてさえいれば、あなたの夢は、きっと叶うよ。もし 叶わなくても、きっと新しい夢に出会う。そして、幸せになれる。あなたは僕とは違う。氷河しかいない僕とは違うんだから……!」
自分の言葉は矛盾していると、瞬には ちゃんとわかっていた。
自分は諦めてしまったのに、そんな自分がメランには『諦めるな』と訴えている。
だが、矛盾を承知の上で、瞬は言わずにはいられなかったのである。
瞬はメランに生きていてほしかった――どうしても、生きていてほしかったのだ。
矛盾したことを必死に言い募る瞬の瞳を見おろし 見詰めていたメランが、軽く左右に首を振る。

「俺は愚かだった。国と城と一国の王としての権力。おまえの兄と同等のものを手に入れれば、生まれが卑しいなんて理由で、おまえから遠ざけられることはない、おまえの側にいる権利を手に入れられると、浅はかにも考えた。身分や力などなくても、俺は おまえに愛してもらうことができたのに。おまえは 俺を愛してくれていたのに――」
「メラン……?」
漆黒の髪、漆黒の瞳。
瞬が彼に“黒色メラン”という名を与えたのは、彼がまとう闇色の印象のせいだった。
氷河とは正反対といっていい闇の色。
だが、メランが 瞬の氷河と違うのは、その姿だけだった。
まさに その“黒色メラン”だけだったのだ。

「氷河……?」
彼の虜囚を見詰める、その瞳の温かさ、優しさ、切なさ――それは、瞬の知る氷河その人のものだった。
「氷河……氷河なの !? ど……どうして……」
ある特別な人物に影響力がある姿、名前、素性。
それを神に差し出して、運命を変える機会を手に入れたと、メランは言っていた。
“氷河”は“瞬”の心を動かすことができる。
つまり、そういうことだったのだ――。

瞬が庭の銀木犀の木の下に見付けた“氷河”は、氷河から“氷河”の姿と名を奪った神。
氷河の姿を使って、氷河を揶揄するためにやってきた神。
あれは、本当に、真の意味で、瞬の氷河ではなかったのだ。
漆黒のメランこそが、その望みを叶えるために 自身の姿を捨てた氷河だった――。

瞬がその事実に やっと思い至った時、彼方に見える山の端に太陽が沈みきった。
地上に残るのは、沈んだ太陽が放つ微かな光だけ。
メランがその場に崩れ落ちる。
「氷河っ!」
太陽の姿が消えて闇色に沈む直前の空が、橙色から紫色への階調を示している。
最後の光が作り出す切ない色の濃淡。
その霊妙な光と影の中で、メランの髪が金色に、瞳が青に変わっていく。
氷河は元の姿に戻り、その命を終えようとしていた。
「俺もおまえを愛している。愛していた」

その言葉を過去形で聞くことほど やるせないことはない――悲しく苦しいことはない。
露台に崩れ落ちた氷河の上体を抱き起こし、抱きしめ、瞬は涙でできた声で叫んでいた。
「氷河! 氷河、死なないで。僕は氷河を愛してるよ! 僕の愛を手に入れれば、氷河は死ななくて済むんでしょう? 気付くのが ちょっと遅かっただけ。僕の愛も命も氷河のものだよ! 氷河、死なないで!」
人が人を愛するのに、国が、身分が、城が必要だろうか。
そんなものがなくても 愛は生まれ、いっそ 何もない方が 愛は深まる。
愛は、心だけで向き合った二人にこそ見付けることのできる宝石なのだ。
「氷河がそうしろと言ってくれたら、僕は王子の身分なんて、すぐに捨てたのに! そして 氷河と一緒にいることを選んだ。兄さんを怒らせても、きっときっと そうしたのに!」

空には既に明色と呼べる色はなかった。
紫色と濃紺、そして、黒。
太陽の代わりに、雪の色をした小さな月が、空の主役になろうとしている。
空気までが暗色に染まっていくような錯覚に、瞬は囚われていた。
氷河が氷河のままでいてくれるなら 絶対に諦めるものかと、瞬が きつく奥歯を噛みしめた時。
「気付くのが 少しばかり遅かったな」
暗色の世界に、恐ろしく冷やかな声が響いてきた。
氷河を抱きしめたままで 瞬が顔を上げると、いつのまにやってきたのか、メランの姿をした男が そこに立っていた。






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