漆黒の髪、漆黒の瞳。 否、その男の瞳には、まだ少し 氷河の瞳の青色が残っていた。 その青が、瞬の前で徐々に漆黒に変わっていく。 完全に黒になる前から、その瞳が氷のように冷たいものであることが、瞬には感じ取れていた。 メランの瞳は、漆黒でいる時にも優しく温かかったのに。 偽の氷河だった者、氷河に空しい賭けを持ちかけ、ひと月の間だけ、この城を氷河に与えた神。 この男が そうだと、瞬には すぐにわかった。 「あなたは誰」 「余は、冥府の王ハーデス。この愚かな人間に、くだらぬ夢を叶える機会を与えてやった、慈悲深い神だ」 「冥府の王――」 異様な日食を起こしてギリシャ全土を恐怖に陥れ、氷河の心を惑わし、今 その命を 武器も使わずに奪おうとしている、強大な力を持つ神。 氷河と約定を交わした神が、まさか冥府の王だったとは。 ハーデスといえば、天上界を治める大神ゼウス、海界を治める海皇ポセイドンと並び、三界の一つである冥界を治める神。 オリュンポス十二神として並び称することも許されないほど別格の、そして異質の神ではないか。 すべての人間が、いつかは彼の支配する死の世界の住人になる。 冥府の王ハーデスは、まさに 神の中の神だった。 瞬は、だが、そんな神を前にしても恐れ おののいたりはしなかった。 今の瞬にとって彼は、希望の光でさえあったのだ。 氷河に この空しい賭けを持ちかけた神が冥府の王なのであれば、彼には氷河を助ける力があるということになる。 彼が、氷河を冥府に受け入れなければいいだけのことなのだ。 「お願いです。氷河を死なせないで! そのためになら、僕は何でもする……!」 「よい覚悟だ」 漆黒の髪が、瞬の懇願を冷笑で受けとめる。 肉体というものは 所詮は魂の器にすぎず、その肉体に宿る心こそが人間(や神)の あり方を決定するものであるらしい。 この ひと月を共に過ごしてきたメランと全く同じ姿をしているというのに、ハーデスとメランの印象は まるで違っていた。 メランは、優しく温かい“人間”だった。 ハーデスは、傲慢で冷たい“神”。 同じように唇の端を上げ微笑の形を作っても、ハーデスのそれは ぞっとするほど 冷たいのだ。 傲慢で冷たい神。 だが、そんな神にも憐憫の情はあるのか、冥府の王は 驚くほど あっさりと瞬の願いを聞き入れてくれた。 もちろん それは神と人間の約定。 望みを叶えるには代償を差し出す必要があったが。 「氷河の命を奪うのをやめてやってもよい。そなたが 余のものになるのなら」 「え……?」 ハーデスに その条件を提示された時、瞬は、冥府の王が提示してきた条件の意味が すぐには理解できなかったのである。 というより、その実行性を疑った。 僕は氷河のものなのに どうやって? ――と。 だが、瞬には、それが実現可能なことなのかどうかを ゆっくりと考えている時間は与えられていなかったのである。 氷河の命が尽きかけている。 命と愛とでは、どちらの方が重いのか、強いのか、価値があるのか。 それは瞬には わからなかったが、瞬は氷河に生きていてほしかった。 生きていれば、あらゆることがどうにかなる――生きているということは、可能性が存在するということなのだ。 氷河が幸せになる可能性。 瞬が欲しいのは、ただ それだけだった。 「なります。氷河を助けて!」 瞬の応諾に、ハーデスがまた、あの冷笑を浮かべる。 その眼差し、表情、印象が あまりに冷たいせいで はっきり読み取ることができないのだが、もしかしたらハーデスは瞬の返答を喜んでいる――ように見えなくもない。 相手は氷河の姿を奪い、氷河に 成りすまし、氷河の試みの実現を妨害しようとした男。 この約定にも何か謀計が隠されているのではないかと、瞬は 一瞬 不安になったのである。 しかし、ハーデスは既に この約定は成ったものと決めつけている――決めつけたいらしかった。 あくまでも冷やかに――彼は、神と人間の約定の成立を宣言しようとした。 「よかろう。そなたの その清らかな涙が契約の証。余は、こたびは、格別の慈悲をもって、氷河の命を奪わずにおいてやる。その代償として、そなたは余と共に冥界へ――」 ハーデスは、だが、その宣言を最後まで言うことができなかったのである。 ハーデス同様 どこからともなく現われた、 「おやめなさい。恋人の命を質に取って、無理に自分の意に従わせようとするなんて。それは 卑劣な脅しよ。卑怯だわ。氷河も瞬も 今 ここで死ぬ運命にないことは、あなたも知っているくせに」 という、女性――おそらくは神――の制止のせいで。 「僕も氷河も、今 ここでは死なない――?」 しかも ハーデスは その事実(?)を知っている――となれば、確かに この約定は卑劣な罠である。 ハーデスは、余計な情報(瞬にとっては有益な情報)を 約定の場に運んできた女神に 忌々しげな視線を投げた。 その視線を華麗に無視して、凛として美しい女神が 彼女の言葉を続ける。 「だいいち、瞬は、あなたのものになると言っているのであって、あなたを愛するとは言っていない。自分の愛は氷河のものだと言っている。瞬の抜け殻を手に入れて、あなたは嬉しいの。あなたが欲しいものは、瞬の清らかさなのでしょう? 抜け殻になった人間の中にあるものは虚無だけよ。汚れもない代わりに、清らかさもない。氷河を愛している瞬を 自分に かしずかせても、あなたは あなたの誇りを傷付けられるだけでしょう」 「人の心は いくらでも変わる。命と違って、それは運命にも神にも支配されていないものなのだから。アテナ、余の邪魔をするな」 「アテナ !? 」 いったい ここはどこで、今日はどういう日なのか。 冥府の王ハーデスに、知恵と戦いの女神アテナ。 オリュンポスの神々の中でも突出し卓越した二柱の神が、今 瞬の目の前で対峙している。 あまりに偉大すぎる その二つの名に、瞬は 畏れ入ることも忘れ、ただただ唖然としてしまったのである。 「ええ、わかっているわ。超ナルシーな あなたのこと、氷河と離れ、あなたと共にいれば、瞬は あなたの その美しい姿に惑わされ、あなたを愛するようになると、あなたは信じている。でも、残念でした。瞬は、あなたのご自慢の その美しい姿なんか、屁とも思っていないわよ」 知恵と戦いの女神は、かなりフランクな女神であるらしい。 率直すぎ、直截簡明すぎるアテナの物言いに、ハーデスは その端正な貌を 極めて不愉快そうに歪めた。 「オリュンポスの神々の中でも 屈指の知恵と清艶を誇る知恵と戦いの女神ともあろう者が、その下品な言葉使い――」 「私は事実を率直に述べただけよ」 ハーデスの不機嫌など、知恵と戦いの女神には、それこそ屁でもないらしい。 アテナは平然と、彼女の率直な意見を述べ続けた。 「どれだけ 瞬があなたの好みのタイプなのかは知らないけど、日食だなんて、あんな大袈裟な騒ぎまで起こして……。ゼウスのガニュメデス誘拐並みに みっともないことだから、おやめなさい。瞬が清らかなのは、瞬が人間というものを愛しているからで、無垢だからではないわ。愛を奪われたり、偽りの愛を強いられたりしたら、いくら瞬が特別製の人間でも、やがて その清らかさは損なわれることになるでしょう。何といっても、心のある人間のことですもの。瞬が清らかでいるためには、愛する者が必要なのよ。なのに、あなたは、瞬にとっては屁以下の存在でしかないし――。屁以下の存在って、何かしら。屁以下、屁以下、屁以下。そうねえ、たとえば――」 「えーい、その聞くに堪えない言葉を、余に聞かせるな!」 「あら。だったら、ぜひ ご教示いただきたいわ。屁以下の存在を、あなた好みの美しい言葉で何と言うのか」 「だから、その聞くに堪えない言葉を 余の耳に入れるなと言っているのだ!」 ハーデスの苛立ちは、徐々に大きくなっていく。 二柱の神のやりとりを 氷河の上体を抱きかかえたまま はらはらして見上げている瞬に、アテナは にっこりと微笑み、もう一度、 「屁」 と言った。 それでハーデスの忍耐力は 臨界点を超えたらしい。 悲鳴にも似た怒声で、 「このような見苦しい やりとりは余の好みではない!」 と言うなり、ハーデスは 唐突に その場から姿を消してしまったのである。 冥府の王は、よほど“屁”が嫌いだったらしい。 ハーデスの姿が消えると同時に、瞬の腕の中にいた氷河が、ゆっくりと その瞼を開けた――。 |