仮面のロマネスク

- I -







1715年に僅か5歳でフランス国王に即位したルイ15世の在位も既に50年。
政治的にも辣腕を振るい、国政にも多大な影響力を持っていた公式寵妃ポンパドゥール夫人が前年1764年に亡くなったばかり。
国王は もはや公式寵妃を持たないつもりなのか、あるいは次の公式寵妃が選ばれるのか。
それが最近のフランス宮廷の貴族たちの最大の関心事だった。
王には 神の御前で婚姻の誓いを誓った妻がいるというのに、宮廷に伺候している貴族たちは誰も、王妃マリー・レクザンスカのことなど思い出しもしないのだ。

「正式に婚姻した王妃がいるのに、公式寵妃とは……。フランス国王はカソリック教徒だと思っていたのだが、それは大いなる誤解だったらしいな。ベルサイユの神は、王が王妃以外に“公式”の妃を持つことを認めるらしい」
太陽王と呼ばれた先王ルイ14世が莫大な費用と49年の年月を費やして築いたベルサイユ宮殿は、その懐に広大な庭園を抱えている。
太陽神アポロンの噴水の中央に立つアポロン像に一瞥をくれてから、フランス宮廷の倫理の紊乱に呆れた顔で、そうぼやいたのはシリュウだった。
ヒョウガが、そんなことを気にしていたら このフランス宮廷で貴族などという商売はやっていられないというように、わざとらしい仕草で肩をすくめてみせる。

「もし国王が次の公式寵妃を持つことになったら、国王が崩御する際には、彼女は もちろん、その地位を追われることになるさ。神の教えに背いて側に置いていた寵妃や愛妾たちを全員 宮殿から追い出し、犯した罪の告解をして すべての罪を清算し、清らかな身になって、国王は神の御前に立つ。臨終の場で自分が犯した罪を坊主に告解すれば、すべての罪は ちゃらになるんだ。王は その時までは やりたい放題を続けるだろうな」
「神も倫理も あったもんじゃないな。死の直前に 慌てて罪を告解したって、それで罪が ちゃらになるわけないだろ。噂には聞いてたけど、ベルサイユの腐敗振りは巷の噂以上だな。噂の方が実態に眉をひそめて、遠慮してたみたいだ」
数日前に シリュウと共に南仏プロヴァンスから出てきたばかりのセイヤは、まるで“噂”に同情しているようだった。

彼等の生まれ故郷プロヴァンスは、もちろんフランス領なのだが、ベルサイからもパリからも遠く離れた地にあり、その地の住人たちは、自分たちは 北部フランスの人間とは――まして、ベルサイユの人間とは――違う人種だという意識と独立心が強い。
彼等とヒョウガが知り合ったのは、パリの士官学校。
事情があってヒョウガが士官学校を途中で退学し、セイヤたちが士官学校を去り故郷に帰ってからも、その交流は続いている。
セイヤもシリュウもプロヴァンスの小貴族の子弟、北フランスに広大な領地を有するシャンタル伯爵であるヒョウガとは、家格や身分のみならず 経済力や価値観も相当違うのだが、なぜか 彼等の友情は途絶えることがなかった。
もしかしたら それは、セイヤとシリュウが 伯爵家を継ぐ以前のヒョウガ、士官学校在学中のヒョウガを知っているから、そして、彼等とヒョウガが会うのが これまではヒョウガがプロヴァンスに赴いた時だけで、セイヤたちがベルサイユでのヒョウガを知らなかったからだったかもしれない。

「ベルサイユの宮廷貴族たちは、妻も夫も、他に愛人がい.るのが普通。愛人の一人もいない者は不粋、恋は優雅な遊戯ということになっているからな。言っておくが、俺は独り身だから、神の教えに背くような罪を犯しているわけじゃないぞ」
「おまえは独り身でもさ、あっちこっちの人妻と優雅な遊戯とやらを楽しむのは、立派な罪だろ」
「ベルサイユでは、ちゃんとした貴族は 夫や妻以外の愛人を持って 貴族の体面を保たなければならないんだ。俺はその手助けをしてやっているだけだ」
「ベルサイユには貞淑な人妻や高潔な貴婦人はいないのか」
嘆かわしげに頭を振ったシリュウの視界の端に入るアポロン像は、天馬を従えて 今にも天に駆け登ろうとしている。
もちろん それは、太陽王ルイ14世を太陽神になぞらえ、『王は 太陽のように天上から フランスとフランスの民を支配する』という寓意を含んだ像なのだが、見方によっては それは、汚れ切った地上を見捨て、天上に逃げ去ろうとしている神の姿にも とれるものだった。

「いないだろうな。このベルサイユでは、一見 貞淑清純そうに見える人間は、嘘と虚飾の鎧をまとって 清らかな人間の振りをしているだけだ。12、3歳以上のフランスの貴族で、恋人も愛人もいない人間は、誰からも相手にされないほどの醜男か醜女だけだろう。清らかな貴族なんて いるわけがない。いや、清らかな人間なんて いるはずがない」
地上を見捨て逃げようとしている青年神の像を睨みながら、吐き出すようにヒョウガが言う。
蔑み侮っているような、その口調。
ヒョウガが軽蔑しているのは、ベルサイユの貴族たちなのか、それとも 彼自身なのか。
それはシリュウにもセイヤにも察しかねた。

「それは、腐った貴族共が、自分がそうだから 他人もそうに違いないと決めつけているだけだろう。このフランスの貴族社会にも清らかな人間はいる」
「寡聞にして聞いたことがないな」
父親の死後 シャンタル伯爵となり 宮廷に伺候するようになったヒョウガは、このベルサイユで醜いものばかりを見ることになったのだろうか。
力説するまでもない事実と言いたげに、ヒョウガの声音は抑揚も覇気もなく、そして 投げ遣りだった。

「んなことねーだろ。とびきりの美形なのに 天使みたいに清廉潔白な貴族がいるって噂、俺、聞いたことがあるぜ」
「そんなもの、いるわけがない。むしろ そういう人間こそ、陰では何をしているか わかったもんじゃない」
「おまえみたいな遊び人の目には特に触れないようにしたいと思っているんだろう。なにしろ、噂の君はヴィルロワ元帥の秘蔵の弟君だ」
「イッキの?」
いるはずのない者について語ることは無意味と考えている態度をあからさまにして、いかにも興味なさそうな顔をしていたヒョウガ。
そのヒョウガが急に その噂に興味を抱いたように、視線をセイヤたちの上に戻してきたのは、ヴィルロワ元帥の名が出たからだったろう。

ヒョウガとヴィルロワ元帥とは全く知らぬ仲でもなく、むしろ因縁のある仲だったのだ。
もっとも、ヴィルロワ元帥に因縁を覚えているのはヒョウガの方だけで、士官学校を出て陸軍に配属されるなり あれよあれよという間に昇進し、20歳を幾つか超えた若さで フランス王国陸軍元帥の地位に昇りつめたイッキの方は、今ではヒョウガの名を思い出すこともないのかもしれなかったが。
イッキの異例の速さの昇進には もちろん、ヴィルロワ侯爵家の長男という彼の身分と フランス国軍の士官将校が無能揃いという現実が手伝ってのことだったろう。
しかし、嫌でも耳に入ってくる彼の華々しい活躍には、ヒョウガも心穏やかではいられなかったに違いないのだ。

ヒョウガとイッキは、同じ時期に士官学校に籍を置いていた。
ヒョウガはシャンタル伯爵家の、イッキはヴィルロワ侯爵家の後嗣。
継ぐべき家も爵位もないために軍人として身を立てるしかない貴族の次男坊三男坊たちとは異なり、二人には出世欲というものがなかった。
だが、だからこそ彼等には純粋な競争心があったのである。
戦術、用兵術等の学業はもちろん、剣術、砲術、馬術等の実学でも――ありとあらゆることで首席を争う二人の“競争”は、ヒョウガの父である前シャンタル伯爵の急死によって終止符が打たれることになったのであるが、それまで人後に落ちることを知らなかった二人の士官学校における“競争”は熾烈を極めていた。

伯爵家の領地経営など、伯爵家に代々 仕えてきた有能な家令や家僕たちが着実かつ誠実に こなしてくれるので、ヒョウガが直接 乗り出す必要もなく、ヒョウガはそうしようと思えば 士官学校に在学し続けることができた。
が、彼は 父の死によって、あらゆることに意欲を失ってしまったのだ。
シャンタル伯爵となったヒョウガは 士官学校を去って宮廷貴族としての生活を始め、イッキは その1年後に士官学校を卒業すると、そのまま七年戦争の戦場に赴いた。

イギリスの支援を受けたプロイセンと、フランス、ロシア、オーストリア等ヨーロッパ諸国の戦いであった七年戦争で、結果的にフランスはイギリスに敗れ、インドからほぼ全面的に撤退し、北アメリカの植民地のほとんどを失ったのだが、イッキが参戦もしくは指揮した局地戦でだけは すべて勝利し、フランスは その体面を保つことができた。
国王ルイ15世は、イッキを異例の速さで昇進させ、その活躍を大々的に喧伝し称賛することで、自国の民の目を フランスの実質的敗北から逸らすことを目論んだのである。
そういう事情があったにしても、イッキが有能な軍人であることは紛う方なき事実であったし、侯爵家の領地経営は家の者たちに任せきりで、彼は常に戦場にあり続け、今ではイッキはフランス王国軍の総司令官という地位にあった。

一方、一時は その彼と共に将来を嘱望されていたヒョウガは、ベルサイユで すっかり貴族の悪習に染まり、いかにもベルサイユの貴族らしく自堕落な日々を過ごしている。
そんな自分の現在を ヒョウガがどう思っているのかは、セイヤたちにもわからなかったが、少なくとも ヒョウガは かつての好敵手の名を忘れてはいなかったようだった。

「まあ、イッキはフランス陸軍元帥として戦場に立って国のために戦い、おまえは宮廷で貴婦人たちの体面を保つための手助けをして、多くの女たちの役に立ってる。分野は違えど、二人共、自分の果たすべき務めを果たしているんだ。どっちも立派なもんだぞ。うん」
セイヤが、その言葉通りのことを考えていないことは明々白々。
ヒョウガは、そんなセイヤを忌々しげに睨み、だが すぐに思い直したように彼を鼻で笑った。
「ふん。継ぐべき爵位も領地もない貴族の次男坊三男坊なら、戦場で一つ二つの手柄をあげるくらいのことをしなければ 身を立てる道もないだろうが、イッキは、今では爵位を継いで広大な領地を持つヴィルロワ侯爵家の当主だぞ。宮廷で国王や貴婦人方の機嫌をとって遊び暮らしていればいいものを、何を好き好んで危険で汚い戦場なぞに身を置くんだか、俺には全く理解できん。奴は 馬鹿か酔狂のどちらかだろう」
「広大な領地を持つシャンタル伯爵家の当主のおまえは、賢明にも そうしているからな。本当にイッキは とんでもない大馬鹿者だ」
「……」

この二人は、こんな嫌味を言うために、プロヴァンスの田舎からベルサイユにやってきたのか。
さすがに むっとしたヒョウガの横を、庭を散策している貴婦人が 大仰な羽根飾りのついた扇を揺らしながら通り過ぎていく。
意味ありげな目配せをしてくる貴婦人に 微笑を返すために、ヒョウガは喉元まで せり上がってきていた怒声を、慌てて喉の奥に押しやった。
勿体ぶった足取りの貴婦人がヒョウガに話しかけてこなかったのは、彼が一人ではなかったからだったろう。
形だけは完璧なヒョウガの微笑を受け取ると、彼女は 気取った様子で その場を離れていった。
そんな貴婦人の後ろ姿に一瞥をくれてから、セイヤが 嘆息しながら頭を横に振る。

「あんな白塗りの化粧お化けの どこがいいんだか、俺には ちっともわかんねーぜ。本当の美人ってのは、あんなふうに白粉で素顔を隠したり、宝石やクジャクの羽根で身のまわりを飾り立てたりしなくても綺麗な人間のことを言うんじゃねーのか。聖書に言う、野の百合みたいにさ」
「噂のヴィルロワ元帥の秘蔵の君のようにな。それは清らかな心の持ち主で、野の白百合も かくやとばかりの清純な美しさの持ち主――という噂だ」
「そりゃあ、イッキも 館の奥に隠しとこうとするわけだよな。宮廷にはヒョウガみたいなのが うようよしてて、そんなのと知り会ったら最後、清らかな野の白百合も、あっという間に まがまがしい毒花に堕落させられちまうに違いないんだから」
「いや。それは いくらヒョウガでも無理だろう。イッキの身内となれば、相当 お堅い子だろうし」
「イッキのガードを破ることは、ヒョウガにも無理かー。まさに鉄壁の防御ってわけだ」
「……」

本来の肌の色も確認できないほど 顔に白粉を塗りたくったベルサイユの貴婦人たちを、ヒョウガとて、本当に美しいと思っているわけではなかった。
求めるものが地位であれ、権力であれ、見場のいい愛人であれ、欲にかられて宮廷に ひしめき合っている貴族たちを好ましいと思ったこともない。
だが、そんな貴婦人の一人に、宮廷貴族の作法に従って礼儀正しく(?)気のありそうな微笑を返してやっただけの友人を揶揄し 挑発するようなセイヤとシリュウの やりとりに、ヒョウガは少々 反発心を覚えてしまったのである。

プロヴァンスの田舎がどうかは知らないが、ここはフランス王国の中心、否、欧州の中心たるベルサイユ。
ベルサイユの貴族には、ベルサイユの貴族の作法というものがある。
それは、倫理道徳のみならず、神の教えより厳に守られなければならないものなのだ。
その作法にのっとって、貴族は 道徳的に堕落していなければならない。
どれほど清らかな人間も、貴族であるからには――人間であるからには、この宮廷の悪習に染まらなければならない。
でなければ宮廷に群れ集う貴族たちは、自身の醜悪に気付き、我にかえり、自らの罪に恐れ おののかなければならなくなる。
イッキが超然として その高潔を保っていられるのは、彼が宮廷に寄りつかず、戦場を出ようとしないからにすぎないのだ。






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