- II -






「これまでの自堕落な生活を清算するには、僧籍に入るのが最も手っ取り早いのではないかと、そんなことも考えたんだが……」
「ヒョウガは 既に 爵位を継いでいるんでしょう? ヒョウガが僧籍に入ったりしたら、困る方々も多いでしょう。ヒョウガが心から神に仕えたいと望んでいるのなら 話は別ですが、自分の罪を悔い償うために俗世を離れようとするのは 逃げになるのでは? それでヒョウガは幸せになれるの? 僕は、ヒョウガのお母様は そんなことを望んではいなかっただろうと思います」

清らかな野の百合の清らかさは、決して無知や無教養によって作られているものではなかった。
邪悪・腐敗には近付かぬようにという兄の指示を守り、直接 接したことはないようだったが、シュンは そういった事柄を知識として知らないわけではない。
ヒョウガが シュンの気を引こうとして 甘えたことや ふざけたことを告げると、そのたび シュンからは 適切で理に適い、しかも誠実で優しい答えが返ってきた。

「では、俺はどうすれば 俺がこれまでに犯してきた罪を償うことができるんだ」
「ヒョウガの言う罪というものが、神に対するものなのか、お母様に対するものなのか、ヒョウガ自身に対するものなのかは 僕にはわからないですし、ヒョウガが 誰に対して その罪を償いたいと望んでいるのかも、僕にはわかりません。その必要があるのかどうかも。でも、僕は、ヒョウガが これから為すべきことは、自分が幸せになるために努めることだと思います。ヒョウガの お母様のお望みは、ヒョウガが愛する人に出会って、幸福になることだったでしょうから」

イッキの弟だけあって――否、むしろ自我が強く、一意専心・直情径行の気がないでもなかったイッキの弟にしては、シュンは 多方面に気がまわり、それゆえ人の心を思い遣ることができる、優しい性質を備えた人間だった。
腐敗や邪悪から遠ざけられているせいで、人の心に悪意がある可能性に思い至ることができず、綺麗なことしか言わない(言えない)きらいはあったが、決して馬鹿ではない。
清らかな野の百合には 野の百合の心がわかるのか、特にシュンが語る母の像は、ヒョウガの心に心地良く響いた。
「俺が幸福になること? 母はもう死んでしまったのに、どうやって。俺の幸福は、母と共にあったんだ」
「それは……ヒョウガが 戯れでなく 心から愛せる人に出会えれば、きっとヒョウガは幸福になれると思いますけど」
「それは無理だ。俺はおまえに出会ってしまった」
「え?」
「おまえを知ってしまったのが、俺の運の尽きだったな。俺の目には、おまえ以外の人間はみな、屑にしか見えなくなってしまった。姿も心も、おまえ以上の人間はいない。やはり 俺は救われないようにできているらしい」

シュンの清らかな価値観で語られる母の姿は美しく、快い。
許されるものなら、ずっとシュンの語る快い声と話を聞いていたいと思う。
だが、シュンの清らかな価値観や考え方は、不浄な人間には そぐわない。
シュンの言葉や価値観では、自分の益のために他人を陥れ、他人を追い落とし、盗み、殺しさえする悪党を語ることは できないのだ。
あまりに綺麗すぎて。
そして、“ヒョウガ”も、シュンの言葉や価値観では語れない種類の人間(のはず)だった。
ヒョウガの目的は あくまで、清らかな野の百合を汚し、堕落させること。
そんな人間の気持ちを、清らかなシュンには 推し量ることもできないのだ。
シュンを堕落させることを目論む男にとっては 好都合なことに。

さりげなく、『 vous(君)』を『 tu(おまえ)』に変え、思い詰めた男の表情を作り、ヒョウガが シュンを見詰める。
恋をしたこともなく、宮廷に出たこともないせいで 人に誘惑されることに慣れていないシュンは、そんな目配せ(色目というべきか)一つにも戸惑って、恥ずかしそうに瞼を伏せてしまうのだ。
あまりに反応が素直すぎて、誘いをかけている こちらの方が気恥ずかしくなるほどだった。
パリやベルサイユから遠く離れたプロヴァンスの田舎娘の方が はるかに男の誘惑に慣れており、疑うことも知っている。
ベルサイユ宮に出仕できる地位と身分を持つ貴族の子弟の この初心うぶさは、奇跡といっていいものだった。

「僕より美しい人は、いくらでもいますよ」
「いるわけがないだろう。気休めはやめてくれ」
そう思う気持ちは真実のものだった。
嘘ではない。
半月近く シュンの許に通い詰め、間近で その姿を見てきたのだ。
シュンが 宮廷の どんな貴婦人より美しいことは――少なくとも、自分の目に そう映ることは、神の御前でも、ヒョウガは堂々と断言することができた。

「俺は、どうあっても救われない。俺はもう、おまえしか愛せないのに」
誘惑されることに慣れた貴婦人なら、薄い作り笑いを浮かべて、『お口がお上手』『その言葉、これまで何人の女性に言ったことがあるの』と応じてくるところである。
だが シュンは、そんな常套文句すら 真面目に受け取り、切なそうな眼差しをヒョウガに向けてくるのだ。
宮廷一のドンファンを、その心を、シュンは虚心に案じてくれている。
そんなシュンの切ない眼差しが、ヒョウガにも 切ない。
だが、嬉しくもある。

そう感じる自分の気持ちが真実のものであること、シュンに対して 実は嘘を言っていない自分に気付き、ヒョウガが困惑を覚えるようになったのは いつからだったのか――。
「おまえを困らせるつもりはないんだ。すまない」
がっくりと肩を落として、その落胆の振りをシュンに見せつける。
自分の そんな振舞いが、芝居なのか、本心からのものなのか、シュンの許に通っているうちに、ヒョウガは自分でもわからなくなりかけていた。

「また いらしてください。二人で考えましょう。最善の道を」
ヒョウガの誘惑に なびく気配は全く見せず、その求愛には、迷惑とまではいかなくても 当惑していることは確実なのに、シュンは決してヒョウガに『もう訪ねてくるな』とは言わなかった。
別れ際のシュンの言葉はいつも、『また いらしてください』。
それが、恋の誘惑に屈したいにもかかわらず その決意がつきかねている者の言葉なら嬉しいが、堕落した男を救うことを義務と考えている神の信徒の言葉なら 喜ぶことはできない。
そのどちらであるのかを、シュンは決してヒョウガに読み取らせなかった。
そして、そんなシュンに会うこと、側にいること、共に時間を過ごすことが、ヒョウガには徐々に苦痛に感じられるようになってきていたのである。

会えば苦しい。
会えないのは、もっと苦しい。
シュンに愛してもらえたら、この苦しみは消えるだろうと思う。
だが、もし拒まれたら――僕は あなたに対して 神のしもべとしての義務と同情心しか抱いていないとシュンに言われてしまったら、得られるものは絶望だけ。
いっそシュンの気持ちなど委細構わず 抱きしめてしまおうかという衝動にかられることもあるのだが、シュンを汚したくないという気持ちが、その衝動を打ち消す。

以前は、一人でいる時には――くだらぬ宮廷の恋愛遊戯に興じていない時には――父への軽蔑や母の悲しみばかりが意識の上に浮かび、そんなことは忘れよう、忘れたいと もがいていることが多かったのに、父母のことを考えて眠れぬ夜もあったのに、シュンに会ってからのヒョウガは、思い出すのはシュンのことだけになってしまっていた。

シュンといたい。
シュンに愛してもらいたい。
もしシュンが自分を愛してくれたなら、自分は それ以上の愛をシュンに返し与えることができると思う。
シュンは一向に誘惑者の誘惑に屈する気配を見せない。
あの澄んだ瞳の持ち主には、そんな誘惑には屈しないでほしいとも思う。
ヒョウガは、自分の中にある矛盾に わけがわからなくなり始めていた。
シュンと自分のことを考え始めると、シュンの瞳の様子を思い浮かべると、心が千々に乱れ、軽い頭痛や目眩いにまで襲われる。

もしかしたら、これが恋――宮廷貴族の恋愛遊戯ではなく 本当の恋なのではないかと、やがてヒョウガは思い至ったのである。
そして、自分にとって その恋が苦しいばかりのものであるのは、セイヤとの賭けのせいなのではないかと。
野の百合を堕落させなければならないなどという考えがあるせいで、正直に正面から、『俺を愛してくれ』と『俺はおまえを愛している』と言えないことが、自分の苦悩苦痛の原因なのだと。
このジレンマを取り除くには、セイヤとの賭けをなかったことにすればいい。
自分の負けを認め、セイヤに10万リーブルを支払い、一人のただの恋する男になって 虚心にシュンに愛を乞うしかない――。
それが、シュンに出会って ひと月後、ヒョウガが辿り着いた結論だった。






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