十数人いるヴィルロワ侯爵邸の使用人たちとは、すっかり顔馴染みになっている。
正面玄関まで迎えに出てきた家令に、
「あいつ等は来ているか」
とカマをかけると、彼はシャンタル伯爵の来訪は約束あってのことと思ったらしく、
「2階のシュン様のお部屋の方に」
と、隠す様子もなく“あいつ等”の居場所を教えてくれた。

家令には案内不要と告げ、自分でも不確かと思える足取りでシュンの部屋に向かう。
部屋の扉は閉じられていたが、小声で話すということができないセイヤの声は、扉に遮られていても、そして 耳を澄ますまでもなく、対面で言葉を交わしている際と大差ない明瞭さで、盗聴者にも聞き取ることができた。

「やるじゃん、シュン。ヒョウガはすっかり おまえに夢中で、ここ1ヶ月の間は 一度も宮廷に行っていない。毎日、ここに いそいそと通って、貴婦人方の体面維持の手助け事業も まるっきり忘れたみたいだ。ほんと、どうやって、あのヒョウガをここまで変えちまったんだ。こんなに とんとん拍子に事が運ぶなんて、さすがの俺も 思ってもいなかったぜ」
「ミイラ取りがミイラを地でいく展開だな。清らかな白百合の花を 真紅の薔薇に変えてみせると豪語していたのに、ヒョウガの生活態度の方が すっかり清潔なものになってしまった」
「自分がミイラにさせられたことを自覚してないとこが、おめでたいよなー」

セイヤとシリュウの声は、楽しそうに弾んでいた。
扉の向こうはシュンの私室。
彼等が楽しそうに話をしている相手は、当然 シュンだろう。
なぜ セイヤたちがここにいるのか。
なぜ セイヤたちとシュンが これほど親しげなのか。
セイヤたちはシュンと知り合いだったのか。
シュンとセイヤたちは どういう関係なのか。
彼等は いったい何を話しているのか。
そして、シュンは 最初から賭けのことを知っていたのか――。

わからないことだらけで、上手く思考を組み立てられず、様々な単語だけが 頭の中に浮かんできて渦を巻き、ますます思考を形作ることができなくなる。
「そうですか」
どうとでも解することのできる短いシュンの返答が、思考力だけでなく、何事かを考えようとする意欲までを、ヒョウガから奪い去ってしまった。

「まさかヒョウガが、ここまで健全かつ健康的に 生活を改めてしまうとは思っていなかったんだが、ヒョウガは もともと好きで自堕落な生活をしていたわけではなかったからな。母親への愛情や後悔、父親への反発や憤り――。生きていれば 当人に訴えることもできるが、その二人共が亡くなってしまったのでは、ヒョウガは気持ちの ぶつけ先がない」
「あいつ、士官学校にいた頃は、今みたいに自暴自棄じゃなくて、悪ぶってもいなくて、ほんとに真面目で まっすぐな奴だったんだぜ。人を信じることもできて、誠実な人間には誠意をもって接してた」
「ええ」
「何でも一番でいたいのは、お袋さんの自慢の息子でいたいから――ってんだから、笑えるよな。愛するマーマの自慢の息子でいるために、ヒョウガは士官学校での成績も一番でなきゃならなかった。だから、必死にイッキと張り合ってさ。もう、呆れるくらいに一本気で、馬鹿正直で、糞真面目で――」
「わかります。ヒョウガは、とても綺麗で悲しそうな目をしていた。自分の今ある状況が つらそうで、嘘をつけない目をしていて……。ヒョウガが無理をしているのが 嫌でもわかって、一緒にいる僕までが つらくなった」

セイヤたちが自分のことを話していることだけは、思考力を失いかけていたヒョウガにも かろうじて わかった。
それだけは――それだけが、かろうじてわかった。

「親父さんが愛人宅で亡くなったのが、奴にはショックだったんだろうな。綺麗で優しくて 愛情深い、最愛のマーマ。その夫で 自分の父親でもある男も、当然 マーマを誠実に愛しているものと信じていたのに、そうじゃなかったなんてさ。それって、ヒョウガが 世に二つとない最高の宝石と思っていたものを、ただの石ころだって侮辱されたようなもんで……。しかも、侮辱したのが 自分の父親だってんじゃ、ほんと、たまんないよな」
「ヒョウガの母君も、どうやら薄々 夫の本心を知っていたらしいんだ。実際は 夫に愛されず顧みられない妻なのに、ヒョウガのために。ヒョウガの前では 幸福な妻、幸福な母親を装い、ヒョウガのいないところでは泣いていた。彼女が、夫の死後、生きる気力をなくして、あとを追うように亡くなったのは、それでも彼女が 不誠実な夫を愛していたからだったろう。ヒョウガは、自分が母親の悲しみも苦しみも知らず、自分たちは幸福な親子なのだと信じていたことに打ちのめされたんだろうな。純粋だっただけに、無力感に支配され、その無力感を払いのけることができなかった――」
「兄さんも、ヒョウガのことを心配して残念がってました。軍に入る入らないは別にして、あんなに有能で有望な男だったのにって……」
「無理して、無気力で自堕落な退廃貴族の振りしてるのが見え見えなんだよなー。根が真面目だから、退廃貴族の振りをするのも一生懸命で、へたに有能なもんだから、あっというまに宮廷一の放蕩児の名をほしいままにするくらいになっちまう。あいつ、どう考えても、才能の使いどころを間違えてるぜ」
「イッキでなくても、腹が立つだろう。望んで得られぬ才能に恵まれているというのに」

宮廷一の放蕩児(より正確には、宮廷一の“元”放蕩児)を語る彼等の言葉にも心にも 悪意がないことは、ヒョウガにも見てとれた――聞いてとれた。
彼等の口調が 一様に楽しそうなのも、決して、その生活態度を健全で健康的なものに改めてしまった“元”宮廷一のドンファンを 嘲っているからではなく、軽蔑しているからでもなく――彼等は ただ その変身振りが 愉快で たまらないだけなのだ。
それが わからないほど、ヒョウガは暗愚ではなかった。
だが――。

「しかし、今をときめくヴィルロワ元帥から プロヴァンスの田舎に連絡が来た時はびっくりしたぜ。しかも、宮廷一の放蕩児の更生依頼とは」
「できれば、軍に入ってほしいようだったな。今のフランス王国軍には無能者しかいないと嘆いていた」
「兄は、かつての好敵手の今の状態が腹立たしかったようで……。とにかく、軍人としてでなくても、その才能を無駄にしないようにしたいと言っていました。」
「みんな、奴の才能を惜しんでるんだよなー。人の気も知らないで、あの馬鹿は のんきに貴婦人の体面維持の手助けだか何だかしてるしさー」
「まあ、良い変化の兆候も見えてきているし、そのうち すべてが上手くいくようになるだろう」

わかっている。
わかっているのだ。
彼等に悪意はなかった。
釈迦如来のたなごころの上で いきがっていた孫悟空さながらに、自分が 彼等の手の上で踊らされていた事実に腹が立つわけでもない。
ヒョウガが我慢できなかったのは、素直に彼等の厚意を受け入れることができなかったのは、シュンが すべてを承知していたこと。
シュンが すべてを知った上で、人に頼まれたから、宮廷一の大馬鹿者の相手をしてくれていたのだということ。
シュンが 人に頼まれて、この更生計画に取り組んでいたのだということ。
その依頼人が よりにもよってイッキだったということ。
そこに、シュンの好意はおろか、大馬鹿者への同情心さえ 存在していなかったという事実だった。






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