古王国の軍がトリトスに攻め入って 散々に翻弄され、壊滅的な打撃を受けて敗走したという報告を 氷河が聞いたのは、世界がそういう情勢にある、ある日のこと。
父から新王国の王位を受け継ぎ、周囲の国を次々に平らげ、二強時代に突入した今、次の手を どう打つかを決めかねていた氷河には、それは衝撃的な出来事だった。

「敗走した? 古王国が? トリトス――あの小国にか」
どうすれば そんな器用なことができるのかと、顔も知らぬ古王国の王に対して、氷河は、皮肉でも冗談でもなく、真面目に真剣に、深刻といっていいほどの気持ちで思ったのである。
誇張でなく、国土も人口も、古王国はトリトスの千倍ある。
兵士の数に至っては、なにしろ軍隊を持たないトリトスに比して千倍どころの話ではない。
氷河は、侍従長から知らされた その報告を、にわかに信じることができなかった。

そして 思い浮かべたのは、トリトスに伝わるという伝説の不滅の剣のこと。
伝説にすぎず、本当にあるのかどうかさえ わからない(と思われていた)不滅の剣が本当にあったというのか。
たとえ本当にあったのだとしても、たった一振りの剣である。
一人の英雄が その剣を振るい侵略軍に立ち向かっていったとして、せいぜい100人の兵を倒すだけでも十分に伝説になる偉業ではないか。
古王国が自軍の力に思い上がって 中隊を2、3送っただけだったとしても、古王国軍が壊滅的打撃を被って敗走するなど考えられない事態なのに、その考えられないことが起きたというのだろうか。
座り心地が悪くて嫌いだった王の玉座に、氷河は新王国の王になって初めて、無条件に全身を預けることをした。

そんな氷河に、侍従長が古王国のトリトス侵攻の経緯を語り出す。
もっとも、それは、『経緯』の説明というより『結果』の報告にすぎなかったかもしれない。
そもそも 古王国の軍隊は、トリトスと戦火を交えることができなかった(らしい)のだ。
「はい。ですが、それは戦と呼べるようなものではなかったようです。古王国八旗――古王国の8名の将軍が、それぞれ2万の兵を率いてトリトスを包囲したのですが、古王国軍は、トリトスに攻撃を仕掛ける前に、将軍全員が指揮をとれない状態に陥ってしまったそうですので」
「古王国八旗――古王国の将軍全員で――古王国で 軍を指揮できる者が全員で かかっていったのか? 万一の時の自国の守りを考えず、総力戦を仕掛けていったと?」
「トリトスは軍隊を持たぬ国。古王国の王は、何があっても、トリトスが自国に攻めてくることはないと考えたのでしょう。実際 そうだったわけですが、古王国軍もトリトスを攻めることはできなかった。トリトスの ただ一人の英雄によって すべての指揮官を失い、戦闘不能になった古王国軍の兵士たちは 千々に乱れて 故国に逃げ帰ったとのことです」

古王国軍は、選ばれた数名の将軍と、彼等の指揮に従順に従う大量の素直な(無能な)兵卒によって構成されている軍隊だった。
数人の将軍の他は、考えることをしない働き蜂、将と兵の中間に位置する士官がいない。
数で押す戦いを得意としている古王国軍においては、へたに自分の考えを持つ兵は 軍の規律を乱すだけの存在なのだ。
古王国は、そういう軍隊で、これまで戦に勝利し続けてきた。
ただし、そういう編成の軍は、指揮官が倒れれば、指揮系統は無いも同然になり、兵士は統率を失って四散するしかない。
将軍が全員、指揮をとれない状態になったというのなら、古王国軍は全滅したも同じだった。

「しかし、どうやって古王国の将軍たちを――」
「伝説の剣を持った英雄が、その剣の力で、古王国の将軍たちから視力と聴力を奪ったという話です」
「古王国の将軍たちは、伝説の剣で 目を切られ耳を落とされたのか?」
女子供を含めて人口2万足らずのトリトスに16万の兵を投入したというのなら、古王国の王も将軍たちも油断していて負けたのではない。
必ず勝つつもりで、古王国軍はトリトス侵略に挑んだのだ。
にもかかわらず、古王国軍は その将をすべて失い、その大軍は 小国トリトスに かすり傷の一つも負わせることができないまま敗走した――らしい。
氷河には それは信じ難いことたった。

「その場面を見て恐れを為し、故国に帰らず 我が国に逃げ込んできた古王国の兵からの伝聞ですが……。古王国八旗が軍議を行なっていた場に現れたトリトスの英雄が、伝説の剣を鞘から引き抜くと、伝説の剣がまばゆい光を放ち、その光を目にした将軍たちは目が見えなくなり、英雄が剣を一閃した その音を聞いて、将軍たちは耳が聞こえなくなったのだとか。トリトスの英雄は、『命は奪わない。愛する人を悲しませたくないなら、目を閉じよ、耳をふさげ』と古王国の将軍たちに忠告したそうです。しかし、古王国の将軍たちは その忠告を無視して、剣が放つ光を見、剣が空を切る音を聞いてしまった。英雄は、言葉通り、将軍たちの命を奪うことはせず、それだけで立ち去ったということです」
「目を閉じ、耳をふさげ? そんなことを親切に忠告してから剣を抜くとは、トリトスの英雄とやらは、よほど自分の力に自信があるか、戦いに慣れていない素人のいずれかだな」
「その両方だったのでしょう。別の兵の話によると、トリトスの英雄は、『邪心を持つ者、醜悪な欲にかられた者、他者への殺意を持つ者は すべて、この剣の力に屈する。神の命もその例外ではない。だから、すぐに兵を退いてくれ』と、古王国の将軍たちに頭を下げて頼んだのだとか。トリトスの英雄は、戦士に必要な自信と、戦士に不必要な親切心と謙譲の心を持つ素人だったと言っていいのではないかと思います」

「神でも? その剣は、神の命を絶つこともできると言ったのか、その英雄は」
「はい」
伝説は伝説。根拠のない噂にすぎない。
トリトスの伝説もまた、根拠となる出来事があったにしても、ささやかな事実を数倍数十倍に誇張し喧伝したものと、氷河は思っていた。
しかし、実際に古王国八旗が指揮能力を失い、16万の大軍が敗走したとなると それはただの噂ではない。
伝説の剣は本当に存在するのだ。
神の命を絶つこともできる伝説の剣が、この地上に。
氷河の胸は弾んだ。

「その剣を借り受けることはできないだろうか」
胸中に浮かんだ願いを、氷河は つい、声に出して言ってしまっていた。
「は?」
王はいったい何を言い出したのかという目を、侍従長が氷河に向けてくる。
それは 至極当然かつ自然な反応だったろう。
『伝説の剣を貸してほしい。その剣で貴国を滅ぼしてから、剣は返却する』と告げられて、快く武器を貸してくれる者などいるはずがない。
だが、氷河は 本当に その剣を借り受けたいと思ったのだ。
無論、その発言自体は、深慮の末に発せられたものではなかったが。

『奪う』ではなく『借り受ける』と言ったのは、トリトスに対して武力を行使し、古王国の二の舞を演じることを避けたかったからだった。
古王国の将軍全員が視力聴力を失ったとなれば――つまり、指揮能力を失ったとなれば、もはや古王国は新王国の敵ではない。
少なくとも、次代の将軍を育成するまで3、4年は 新王国との大きな戦はできないだろう。
それどころか、将を全員 失い、人望を失った古王国の王は、国王として自分の国を国として存続することさえ危ういことになるかもしれない。

世界の情勢がそうなってきている今 この時。
氷河がトリトスに攻め入り、古王国と同じ轍を踏めば、この世界の覇者は 軍隊を持たない小国トリトスの王になってしまうだろう。
つい数日前まで、この世界に生きる人間が誰一人 考えたこともなかっただろうことが、この世界に実現してしまうのだ。
たとえ、それが この世界が辿るべき最上の道だったとしても、氷河は新王国の王として、自分の国を滅ぼしてしまうわけにはいかなかった。

「トリトスは軍隊のない国です。そのトリトスにあって、伝説の剣は唯一の武器、伝説の剣がトリトスの軍隊のようなもの。その剣を借り受けるのは無理でしょう。伝説の剣を手放すことは、国の滅亡を招くだけのことと、それは戦いの素人にもわかることです」
「伝説の剣を奪われれば、それだけでトリトスは滅びたも同然。貸してくれと願い出ても、貸してくれるはずはないか。では、力づくで奪うしかない。しかし、その剣がトリトスにある限り、それは不可能。となれば――」
策略を巡らせて、伝説の剣を盗むしかない――。

もちろん、新王国も古王国同様、トリトスに向けて大軍を動かすことは可能である。
氷河の統べる新王国の軍隊は、古王国軍とは異なり、指揮能力を持つ将と兵卒のみの編成にはなっておらず、指揮官が倒れれば、補佐官が指揮を代行して戦闘を続けることができた。
小隊中隊レベルでの独自の判断も許している。
古王国と全く同じように敗退することは、まず あり得ないことだった。
しかも、最大の敵と見なしていた古王国が今は動けない状態にあるのであるから、トリトス侵略を開始した隙を衝かれ、新王国が 古王国に背後から攻められることを案じる必要もない。
だが、大軍を率いて、一振りの剣を盗みに行くなど馬鹿げている。
それで古王国の二の舞を演じることになったりしたら、新王国の王は 古王国の王以上の愚か者と評されることになるだろう。
やはり、軍を動かさずに盗み出すしかない――。
氷河は、そう思ったのである。

トリトスに、想定できない危険があることは承知している。
氷河は、だが、どうしても伝説の剣を手に入れたかった。
だから――氷河は、一人でトリトスに向かうことにしたのである。
表向きは、二国間の友好のためを装って。






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