トリトスは本当に小さな国だった。 国土の広さ、人口共、新王国や古王国でなら町レベル。 大国の軍隊を敗走させたばかりだというのに、国民が浮かれている様子もない。 だが、国にも人々にも活気はあった。 王宮に続く大通りには人通りが多く、幅のある通りの両脇に並ぶ店には、食糧、衣料、雑貨・工芸品等が豊富に並んでいる。 道行く人々の表情は明るく穏やかで、戦を知らぬ国の民とは こういうものなのかと、氷河に ある種の感懐を運んできた。 王のいる城も、氷河の居城に比べれば 玩具のように小規模なものだったが、軍隊や兵士を抱えていないのなら、それは当然にして十分。 城には、王家の者と その世話をする使用人が住まうことができ、行政に携わる者が政務を行なうに必要なスペースがあればいいのだ。 そう考えれば――氷河の国の同規模の町の集会所に比べれば――トリトスの王城は、実に壮麗なものだった。 明るく穏やかで、少々 緊張感を欠いているトリトスの国の民。 とはいえ、さすがにトリトスの国王は、彼の国民とは異なり、明るく穏やかとは言い難い男だった。 氷河の統べる新王国で最も過激で勇猛な将軍より はるかに好戦的な緊張感を身にまとっており、その眼光は鋭く、平和という ぬるま湯に浸かった人間の様子をしてはいなかった。 あからさまに氷河を疑っている人間の 胡散臭そうな目――それは、仮にも友好を求めて 単身で出向いてきた一国の王に向ける目ではない。 氷河を歓迎していない態度も露骨。 本当に二国間の友好だけを求めてトリトスを訪問したのであったなら、氷河はトリトス王に出会った瞬間に、まわれ右をしてしまっていたかもしれなかった。 氷河がそうしなかったのは もちろん、彼の目的がトリトスとの間に友好を築くことではなかったから。 そして、トリトスの国王と共に氷河を応対してくれた王弟が、兄王の無愛想を補って余りあるほど愛想にあふれ、親しみやすく、氷河に対して 歓迎の意を示してくれたからだった。 男子の衣装を着けているし、腰には剣さえ帯びているので、男子であるのは事実なのだろうが、これまで氷河が出会ったことのある どんな少女より可憐で清楚。 表情は優しく穏やか、文句のつけようもない美形――もとい、賛美せずにいられない美形。 もし 可憐、清純、優しさの神がいるのなら、こういう姿をしているに違いないと思えるほど、その姿は可憐、清純、優しげだった。 「古王国のことを聞き、貴国とは友好を保っておいた方がいいと考え、慌てて参上した次第だ」 綺麗事だけを並べ立てても、この王には信じてもらえないだろうと判断し、氷河は歯に衣着せず 率直に 腹蔵のない本音に聞こえるだろう口上を唱えたのだが、胡散臭いものを見るようなトリトス国王の目つきは変わらなかった。 これが本当に 戦を知らず、“美しいもの”だけでできていると言われている国の王なのかと疑いたくなる男。 この男に比べたら 自分など十分に優男で通ると、氷河は かなり本気で思ったのである。 そんな国王とは対照的に、王弟の方は、国土を馬の蹄に荒らされたことのない 花畑のような国の住人に ふさわしい優しい印象の持ち主だった。 「兄さん、そんな 顔は失礼です」 兄をたしなめる口調も やわらかく丁寧。 しかも可愛い。 この可憐な王子に たしなめられたのが 自分だったなら、すぐに仏頂面を崩して 鼻の下を伸ばすのに、それが普通の反応だろうに――と思う。 が、トリトスの王は人外の生き物であるらしく、彼の険しい顔は どこまでも険しいままだった。 そんな兄に困ったように、王弟が氷河の方に向き直ってくる。 「新王国の国王陛下を、友好と親善の使者として お迎えできるなんて、本当に嬉しいことです」 仏頂面の兄の分も愛想と親密さを補わなければならないと考えたのか、王弟は笑顔全開。 可憐な野の花が精一杯 陽光を受けとめようと背伸びをしているようで、可愛らしいこと この上ない。 好戦的なトリトス国王も、さすがに弟の懸命な様子に負けたのか、 「ねっ」 と弟に同意を求められると、不本意そうにではあったが、一応 頷いた。 これほど可愛いらしい弟。 どれほど苛烈厳格な男も甘い兄にならざるを得ないのかと、氷河は胸中 密かに嘲笑したのである。 「俺には自分の国と民を守る義務がある。貴国を敵にまわすわけにはいかない」 澄んだ瞳を持ち 優しい風情をたたえた弟王子と、見るからに猛々しい武闘派の兄。 そんな二人に並ばれたなら、目は自然に 王ではなく王弟の方に向くのだが、その立場上 王を見ないわけにはいかず、氷河は、ほとんど拷問を受ける気分で、その視線を兄王の方に戻したのである。 氷河が トリトスの王宮玉座の前に立っているのは、伝説の剣の情報を得るという目的のためだった。 「もしや、トリトスの国王自身が 古王国の将軍を ことごとく退かせた英雄なのか?」 純粋な好奇心 あるいは英雄への憧憬から そう尋ねるのだというふうを装って 問うた氷河に、トリトスの国王は答えを返してはこなかった。 代わりに、 「古王国の軍がどうなったのか教えてやれば、もう一つの国の王も野心を抱かないか」 と、おそらくは 新王国の王を牽制するために わざと、氷河に聞こえる程度の音量で独り言(の振りをした当てこすり)を言う。 氷河も、できれば皮肉で返したいところだったのだが、せっかくトリトスの王が古王国敗走の経緯を語る気になってくれているというのに それをしてしまったら、得たい情報を手に入れ損なうかもしれない。 そう考えて、氷河は懸命に自分を抑えたのである。 耐えた甲斐はあったようだった。 トリトスの王が、おそらくは話の端緒といるために、 「我が国に伝説の剣があることは知っているか」 と、氷河に問うてくる。 氷河は王に頷き返した。 関心のない振りをしても、かえって疑われるだけなのだ。 「邪悪な心を持つ者であれば、それが神であっても 命を絶つことのできる剣だとか」 その力を恐れている者の姿を装い、その実 伝説の剣に関する情報を少しでも引き出すべく注意深く答え、氷河はトリトスの王の表情を窺った。 伝説の剣が他国に渡り その刃が自分に向けられる可能性など考えたこともないように、トリトス王は余裕綽々の体である。 「そうだ。不滅の剣。もっとも、その呼び名は我が国だけでの呼び名だがな。我が国の侵略を企む者にとっては、それは必滅の剣ということになる」 それは牽制なのか、脅しなのか。 トリトス王に訊いてみたい衝動にかられたが、氷河は その衝動にも かろうじて耐えた。 皮肉な口調で そんなことを尋ねたが最後、トリトス王は機嫌を損ねて、遠来の客を王宮から放り出しかねない。 それほど――町レベルの小国の王にすぎないにもかかわらず、トリトスの国王は尊大だった。 「伝説の剣がある限り、我が国は不滅。そして、無敵。いかなる侵略者も その目的を果たすことはできない」 たった一振りの剣が、小国の王に 自信に満ちた様子で そう断言させるほどの力を持っているのだ。 余計な口出しをせず、かしこまって トリトスの王の自慢話を聞く気にもなるというものである。 「古王国の将軍たちは皆、瞬の振るう剣の下に降った」 「しゅん?」 トリトス国王が口にした『しゅん』という音に、氷河は 暫時 戸惑ったのである。 トリトスの王の説明は、実に不親切で わかりにくかった。 まもなく、それが人の名だということに気付き、更に トリトスの英雄の名だということに気付き、トリトス国王の視線の先を追うことで、その英雄が この場にいる一人の少年のことだと気付く。 『瞬』を語るトリトス王の視線は、彼の可憐な弟の上に注がれていたのだ。 その視線が せめて、この謁見の場に立ち会っている重臣たちの誰かの上に注がれていたら どんなによかったかと、氷河は思ったのである。 トリトスの英雄が 血気に逸った意気軒昂で たくましい青年でなかったとしても――たとえ白髪混じりの老体だったとしても――それが トリトスの可憐な王弟でさえなければ、氷河は その失言をせずに済んだのだ。 「剣? そんな細腕で? まさか」 トリトスの英雄にしてトリトスの国弟、そして可憐な花でもある瞬が、氷河の その言葉に傷付いたように 瞼を伏せてしまう。 「いや、すまない。失礼した。少し意外で……」 決して侮っているわけではないのだと、むしろ その澄んだ瞳、可憐な佇まいには感動さえしているのだと、本当のことを言えば、瞬はますます侮辱されたと思うだろう。 適切な言い訳を思いつけず、氷河は言葉を淀ませることになってしまった。 幸い 瞬は、すぐに立ち直って(?)くれたのだが。 「僕みたいな細腕で 戦いを知らない子供でも、不滅の剣があれば、どんな敵にも負けないんです」 「よからぬことは考えぬことだ」 可憐な英雄の言葉に続いて、威圧的なトリトス国王の脅し。 「兄さん、そんな脅すみたいに……」 瞬が、優しく 困ったように兄王を たしなめる。 氷河が『脅すみたい』ではなく『脅し そのもの』だと言わずに済んだのは、瞬の やわらかく優しい言葉、表情のおかげだった。 それにしても――。 「僕には、何より平和が大事で、平和でいることが嬉しいんです。この国と民と平和を守りたい。攻められなければ、何もしません。あの……もし そうなることを心配して、この国にいらしたのだったら、お心 安くしてらしてください」 伝説の剣を振るった英雄が 瞬だというのは冗談ではなく、事実らしい。 氷河は改めて、瞬のか弱い(と言っていい)風情に驚くことになってしまったのだった。 「しかし、伝説の剣は 強く長いものなのではないのか。装飾も凝ったものなのだろうし、となれば重さも相当あるだろう。その細――繊細な手や腕で どうやって――」 振り下ろすことは愚か、持ち上げることさえ困難なのではないかと、氷河は本気で瞬の腕や肩を案じてしまったのである。 自分が他国の王に心配されていることを察したらしい瞬が、氷河のために(としか思えない)明るい微笑を投げかけてくる。 「いえ、伝説の剣は、ごく小さな――軽くて飾り気のない短剣なんです」 「短剣? 長剣ではないのか」 「ええ。ちょうどこれくらいの大きさ長さの剣です」 そう言って、瞬が、自身の腰の帯に差している短剣を指し示す。 それは本当に細く短い剣で、せいぜいオレンジやリンゴを割るくらいのことしかできないのではないかと思える華奢な剣だった。 瞬は、心配性の男を安心させるために そう言っているのだと、氷河は察したのである。 伝説の剣を盗むにしても、そもそも剣の ありかがわからない。 長剣ではなく短剣という瞬の説明も、おそらく事実ではないだろう。 伝説の剣の本当の姿すら わからない。 そういう状況で、どうやって自分はトリトスまでやってきた目的を果たせばいいのか。 姿の見えない伝説の剣に、氷河は途方に暮れることになってしまったのだった。 「浅ましく醜い欲を持たず、疑いを知らない清らかな心の持ち主と 神が認めた者でなければ、鞘から抜くことも叶わぬ剣。不滅の剣は、戦に明け暮れている国の者には扱えぬ剣だ」 まるで氷河の真意を知っているかのように、そして 釘を刺すように、瞬の兄が言う。 その言葉が真実なのであれば、トリトスの英雄が瞬だということには納得がいく。 しかし、それも、他国の王に『盗んでも無駄』と思わせるための虚言なのかもしれない。 伝説の剣を手に入れるための――さしあたっては、その ありかを探るための――策を練らなければ、新王国の国王は、彼がトリトスの国に来た目的を果たすことはできないようだった。 |