新王国の王宮の長い廊下の果て――華美な装飾はないが、置かれている家具や調度は いかにも品がよく女性らしい、白を基調とした静謐清潔な部屋。 高い天井まで届く窓には飾りガラスが嵌められているようだが、薄いカーテンに遮られて陽光は ほとんど室内に入ってきていない。 部屋の奥に天蓋つきの寝台があり、そこに一人の女性が眠っていた。 長く豊かな金髪。 その金色の髪を見ただけで、瞬には それが氷河に ごく近しい彼の肉親だということがわかったのである。 「この方は――」 「俺の母だ」 「氷河の……お母様……」 では、その瞳も氷河と同じように美しい青色をしているのだろう。 そう思い、思ってから、なぜ自分は その瞳を見ることができないのかと、瞬は訝った。 「眠っていらっしゃるの? それとも――」 彼女は息をしているようには見えなかった。 だが、亡くなっているにしては、肌に温かさが たたえられているように見える。 瞬が口にできなかった言葉を、瞬の代わりに発してくれたのは彼女の息子だった。 「死んでいる。多分。母を こんなふうにしたのは 死を司る神だからな」 「死を司る神?」 「タナトスと名乗っていたそうだ。その時、母の側にいた小間使いによると」 その時――。 その時が いつで、そして、その時 彼女の身に何が起こったのか。 瞬が問うまでもなく、氷河はそれを瞬に教えてくれた。 「今から半年ほど前――俺が最後の戦に出ていた時、母の前に死を司る神が現われたらしい。死の神は、俺が戦場で負傷して死に瀕していると、彼女に告げた。今日が運命の神に定められた俺の死の時だと。それを聞いた母は、自分の命を渡すから、俺の命を奪わないでくれと死の神に訴えた。そして、こうなった」 「氷河を救うために、自分の命を死の神に差し出したの?」 息子が死に瀕していると言われたら、自分の命に代えても息子を守りたいと思うのは、一人の母親として ごく自然なことなのかもしれない。 母親の命を引き換えに生き永らえた息子が、それを喜ぶかどうかということは また別の問題だが。 「そうだ。だが、それは死の神の卑劣な策略だったんだ。おれはその時 確かに戦場にいたが、我が軍の勝利は決し、俺は自分の身に かすり傷一つ負っていなかった。だからなんだろう。俺も母も その時にはまだ死すべき運命になかったから、死の神に命を渡しても、母の身体は生きている時のまま 温かく美しい」 「死の神は、なぜ そんなことを――」 死の神は、なぜ そんな嘘をついたのか。 それ以前に、死すべき さだめの時が来ていない人間の命を奪うことが、たとえ神にでも許されるものなのか。 息子のために その命を死の神に差し出した母親の 美しく気高い面差しが、瞬の胸を打つ。 なぜ こんなことになり、自分の身代わりとなった母の死に 氷河が何を思ったのかは わからなかったが、瞬に察せられたことが一つあった。 この美しいひとのためになら、氷河は何でもするだろう。 どんなに卑劣なことも、どんなに冷酷なことも、氷河はきっとするだろう。 たとえば、小国の王子を騙し、その信頼を裏切るようなことも、氷河はする。 それだけは、瞬にもわかったのである。 「戦に勝ち 城に帰ってきた俺の前に、その死の神が現われ、こんなことをした訳を俺に教えてくれた。若くして、この世界の半分を手に入れた俺は 幸運に恵まれすぎている。一人の未熟な人間には過ぎた幸運。少しは不幸不運を背負わなくては不公平だとな。そんな理由にもなっていない理由で 母の命を奪われては たまらない。俺は奴に切りかかっていったが、俺の剣では 死の神を切り伏せることはできなかった。俺の剣は、奴の身体を素通りした。そんな剣では神を切ることなどできないと言って 俺を笑い飛ばし、母の命は 本来 運命に定められた死の時まで 神の力で封印しておくと言い残して、奴は俺の前から姿を消したんだ」 「それで氷河は――」 「そんな時、おまえの国に、神を切ることのできる剣があることを知った。俺は、その剣で 母の命を封印している死の神を倒せば、母の命を取り戻すことができると思ったんだ」 「……」 だから、彼は、母の命を取り戻すため、トリトスに乗り込んできた。 王弟を言葉巧みに騙し、トリトスの宝剣を盗み出した。 その剣がただの宝剣に過ぎず、死の神に かすり傷の一つもつけられないことを知った時、氷河は何を思ったのか――。 偽物を掴ませたトリトスの王弟に腹を立てたのか、偽物の剣を掴まされた自分自身の迂闊を嘆いたのか。 母の命を取り戻すために 卑劣漢にまで成り下がったのに――そうまでしたのに報われなかった空しさに絶望したのか――。 いずれにしても、自分のしたことが徒労にすぎなかったことを知り、氷河は既に母を生き返らせることを諦め、自らの死を覚悟しているようだった。 自分の不幸不運に耐えるために、彼は、更なる不幸不運を求めている。 であればこそ 彼は、瞬の持つ剣が伝説の剣であることを知りながら――彼にとっては 必滅の剣であることを知りながら、その剣の前に わざと我と我が身をさらしたのだ――。 「本当のことを話してくれていれば……」 なぜ氷河は話してくれなかったのか。 氷河が彼の身に降りかかった災厄のことを話してくれていたなら、瞬は 少なくとも、氷河に 彼を信じている者を裏切らせるような卑劣なことはさせなかった。 彼が事情を語ってくれていたなら、氷河を、そんな不誠実な人間にはさせずに済んだのに。 瞬の切ない訴えの前で、氷河が力なく首を横に振る。 「本当のことを話していたら、おまえは 俺に伝説の剣を貸してくれたか? おまえがそうしようとしても、おまえの兄が 伝説の剣を国外に持ち出すことを許すことがあるとは思えなかった」 「……そうですね。兄は その申し出を拒絶したでしょう。この剣は、僕が生きている限り、僕にしか扱えない剣なんです。僕が死んで、僕の次の“清らかな者”を神が定める時まで。不滅の剣を貸すということは 僕を貸すということ、トリトスを守る力を貸すということ。兄は、トリトスの王として、そんなことはできない。今日も、僕は兄に内緒で城を抜け出してきたくらいで……」 確かに氷河は、彼の母の命を取り戻すために 卑劣な嘘つきになるしかなかったのかもしれない。 瞬は、唇を噛みしめた。 だが。 既に起きてしまったことを いつまでも悔やんでいても何にもならない。 瞬は、今はせめて、今の自分にできることをして、氷河の心を少しでも和らげてやりたかった。 死の影の漂う部屋。 氷河には何も言わず、一歩分だけ彼の母が眠る寝台に近付く。 今は確かめることのできない美しい女性の青い瞳を脳裏に思い描きながら、瞬は虚空に向かって命じた。 「死を司る神タナトス。姿を現しなさい」 仮にも神に対して、そんな居丈高な物言いをしていいのかと思う気持ちもあったのだが――城で自分に仕えている小間使いにさえ、瞬は そんな口調で話しかけたことはなかったのだが――相手は、その職分を逸脱して 死すべき時の来ていない人間の命を奪い、氷河を苦しめ、氷河に卑劣な振舞いをさせた非道な神。 そんな神に対して、瞬は低姿勢に出る気にはなれなかったのだ。 瞬の命令に応じて 銀色の髪と瞳を持った死の神が、ゆらゆらと不吉な姿を現わす。 他者に何事かを命じられることに慣れていないのか、彼は、人間の命令口調に立腹しているというより、訝っているようだった。 いったい どういう人間が どんな権利を持って神に命令を下すのか、あるいは、その人間の思い上がりの根拠は何なのかと。 瞬は、思い上がっているわけではなかったが、彼を断罪する権利と力は有していた。 「実体ではないようですが、この剣の力は、時空も次元も超えて作用します。この剣が どんな剣かわかりますか。氷河のお母様を不当な死から解放してください」 「その剣は……」 瞬が 半分だけ鞘から刀身を抜き示してみせた剣の光を見て、タナトスが(タナトスの影が)ぎくりと顔を強張らせる。 神の道に外れたことをする神でも、タナトスは、人間の氷河とは違って 伝説の剣の力と価値を見誤ることはなかった。 「不滅の剣、あなたにとっては必滅の剣です。氷河のお母様の 我が子を思う母の心を利用して、氷河のお母様を騙し、その命を不当に奪いましたね」 「ふ……不当なものか。人間は誰しも、いつかは その命を失う」 「ええ、いつかは。ですから、氷河のお母様の命を、今 あるべきところに戻してください。でないと僕は、この剣であなたを切り伏せなければなりません。死を司る神が、有限の命をしか持たない人間によって滅せられるなど、恥辱以外の何物でもないと思いますが」 「……」 瞬のその言葉に、タナトスが、怒りに燃えた顔になる。 だが、瞬の手にある剣は、死の神よりも強い力を有しているらしく――瞬に その剣を操る力を与えた神は、彼より高い位置にいる神らしく――タナトスは、その力に抗することを早々に諦めたようだった。 忌々しげに舌打ちをして、タナトスの姿が その場から消える。 同時に、その部屋に立ち込めていた死の影もまた 嘘のように消え去った。 「新王国の王太后様。目を開けてください」 瞬が、寝台に横たわるひとに静かに呼びかけると、彼女はゆっくりと その瞼を開けた。 思っていた通りに、美しい青色の瞳。 氷河と同じ色の瞳に 瞬の姿を映し、彼女は瞬に向かって、 「なんて綺麗な目」 と、やわらかく優しい声で呟くように言った。 その声を聞いて感極まったように、氷河が、死の影の消え去った部屋に歓喜の声を響かせる。 |