交響曲第5番






春の野に咲く花を思わせる可憐な姿、澄んだ瞳、見るからに清楚清潔な印象、何より その優しげな表情、眼差し。
それは一目惚れだった。

とはいえ、氷河は面食いだったわけではない。
少なくとも、自分が その病に罹患していると思ったことは一度もない。
氷河は自分を、大概の人間が そうであるように 醜いものよりは美しいものの方が好きなだけの、ごく普通の人間だと思っていた。
氷河が面食いなのか そうでないのかは、だが、実は大した問題ではなかった――その どちらであっても、結果に大差は生じなかっただろう。
瞬が美しいのは 外見だけではなかったから。
瞬と言葉を交わすようになり、その言動に接するようになった氷河は、瞬が外見だけでなく その内面も――考え方も、感情の動きも、価値観も――美しく優しいものだということを、すぐに確かめることができたのである。

外見は申し分なく、完全に氷河の好みに合致しており、内面は それ以上に優れている。
一目惚れだった(のかもしれない)氷河の恋が、軽々しさのない真剣なものに変わるのに、長い時間はかからなかった。
これこそ運命の出会い、運命の恋と確信した氷河は、瞬に対する なりふり構わない猛アタックを敢行し、その努力の甲斐あって、めでたく瞬と恋人同士と呼べる間柄になることができたのである。

共に両親がなく、養護施設育ち(そもそも二人が出会ったのは、そういった施設で生活している高校生たちの親睦会を兼ねた区主催の情報交換会だった)。
同じ境遇にある二人が、家庭家族に恵まれた同年代の者たちより はるかに深く 互いを理解し合い、はるかに強く 互いを思い合うようになったのは、ごく自然な成り行きだったろう。
二人には、互いしかなかったのだから。
二人は、互いを見詰め合っていればよかったのだから。

母を失った時、自分には もう永遠に 心から幸福を感じることはないのだと思っていたのに、それは間違いだった。
氷河は、瞬と出会い、瞬と同じ時を過ごすようになって再び、幸福の国の住人になることができたのである。
瞬は素直で優しく温かく――出会い触れ合うたび、氷河の恋は深まっていった。
児童福祉法等の定めによって、二人が養護施設にいられるのは18歳まで。
氷河が瞬より1年早く施設を出て 独立した生活を始めることになるのだが、いずれは二人で共に暮らそうと、そんな約束を交わすほど、二人の恋は真剣なものだった。

寄る辺ない孤児同士のこと、この先 どんな試練や障害が立ちふさがることになるかもしれない。
だが、二人が愛し合い、支え合っていれば、乗り越えられない壁はない。
疑いもなく そう信じていられる幸福。
二人は、社会的に不遇であればこそ幸福の中にあり、二人の恋は美しく純粋で、そして、希望に満ちていたのである。


そんなふうに、希望に輝き、順風満帆だったはずの二人の恋に暗雲が立ちこめ始めたのは、二人の前に一人の少女が姿を現わした時だった。
その少女は、あろうことか、自らを運命の女神と称し、氷河と瞬は本来 出会うはずではなく、当然 恋に落ちるはずでもなく、氷河には別に運命の恋人がいるのだと言ってきたのだ。
運命の女神――エリスと名乗った――によると、氷河が結ばれるべき運命の恋人は絵梨衣という名の少女らしい。
そして、定められた運命から逸脱し、もし氷河と彼女が結ばれないようなことになると、運命の歯車が狂って 地上世界が滅びてしまうのだ――と、自称 運命の女神は二人に告げたのである。

地道に、ささやかに、かつ 現実的に恋を育んでいた二人には、エリスの語る、運命の女神だの、地上世界の滅亡だのという話は、荒唐無稽なSF小説のストーリーか 狂人の妄想としか思えないものだった。
氷河が、自称 運命の女神の正気を疑ったのは、人間の営む社会に生きる者の一人として、至極当然のことだったろう。
「おい……。いくら何でも、そんな言葉を信じろというのは無理があるぞ。地上世界が滅びる? 瞬が天使だというのなら、信じてやらないこともないが、あいにく俺は瞬に恋する ただの美形で、神でも悪魔でもない。もちろん、スーパーマンやウルトラマンでもない。おまえ、頭の方は大丈夫なのか?」
「おまえが 特別の力を持たない普通の人間だということは知っているよ。地上世界を滅ぼす力を持っているのは、おまえと結ばれることになっている絵梨衣の方だ」
「なに?」

いったい何に驚き、何に呆れ、何を信じ(むしろ 疑い)、何を笑い飛ばせばいいのかが わからない。
あくまでも真顔で言い募る自称 運命の女神に どう対応するのが最も適切な行動なのか、氷河と瞬は、その判断に迷うことになってしまったのである。
彼女が病人であることは まず間違いのないところだが、彼女に誇大妄想を生ませている原因が双極性障害なのか 統合失調症なのかが わからない。
一応 話を最後まで聞いてやれば、それで彼女は気が収まり落ち着いてくれるのか、それとも 相手にせずにいた方が、これ以上 彼女の病状を悪化させずに済むのか。
その方面に造詣が深いわけではなく、もちろん専門医でもない氷河と瞬には、どう対応するのが彼女のためで 自分たちのためなのか、皆目見当がつかなかったのである。
対応を誤ると大ごとになりそうで、氷河と瞬は迂闊に動くこともできなかった。

そんな氷河と瞬の迷いを無視して、エリスは自分の妄想を滔々(とうとう)と語り続けてくれた。
曰く。
定められた運命では、氷河が瞬と出会った情報交換会 兼 親睦会で、氷河と出会い 恋に落ちるのは、本当は瞬ではなく絵梨衣の方だった。
氷河と結ばれる運命の絵梨衣も、境遇的には氷河や瞬と同様、肉親の愛には あまり恵まれてはいない。
そんな彼女が、氷河と結ばれることによって、生まれて初めて幸福と感じられる時を手に入れる。
その幸福は絵梨衣の心を安定させ、彼女の中に確固たる価値観を築く。
その価値観によって、自分にとって大切なもの、自分が守るべきものが何であるのかを見失うことがなくなった絵梨衣は、人として歩むべき正しい道を歩み、平凡で幸福な人間として、その生を全うする。
だが、もし 氷河との幸福を手に入れられなかった場合には、絵梨衣は、自らの不幸な境遇を嘆き、拗ね、恨み、精神的安定を欠き、悪魔の誘いに容易に屈して、世界の滅亡に一役買うことになってしまうだろう――。

自称 運命の女神が語る妄想は、平凡な日常に潜む地球規模の危機をモチーフにした、実に壮大なものだった。
しかし、日常生活を描く現代小説としてはリアリティに欠け、SF小説としては手垢がついて ありふれた展開。
『ごく平凡な少女が、あるきっかけによって云々』というのは、四半世紀も前のジュブナイル小説の乗りである。
だが、氷河が読みたいのは、自分と瞬の熱烈な恋愛小説。
荒唐無稽な日常小説でもなければ、超古典的なSF小説でもなかった。

「悪魔の誘いに屈する? ナンセンスだ。ゲーテがファウストを書いたのは、もう200年も前のことだぞ。パロディも出尽くしている」
「もちろん、悪魔というのは単なる比喩にすぎない。自らの不幸不遇を嘆き、社会を憎み、自棄に陥り、心弱くなっている絵梨衣に、地上の破滅を企んでいる争いの女神がつけ込んで、彼女を人間にとっての悪魔、災厄そのものにしてしまうのよ」
“悪魔”が“争いの女神”に変わったところで、エリスの妄想に信憑性が増すわけではない。
運命の女神を自称する狂人の相手を続けることが、氷河は そろそろ苦痛になり始めていた。

「そうならないために、おまえは絵梨衣と結ばれなければならないんだ」
「俺は瞬を愛している」
「おまえたちは間違って出会ってしまっただけ。氷河、おまえは たった今 瞬と別れて、絵梨衣と恋に落ちるんだ」
「できるか、そんなことが」
「その修正をするのが、運命の女神である私の仕事なのでね。でないと、地上世界が滅びる」
「あの……それは、あなたが考えている小説か漫画のストーリーなの……?」
瞬が 心配顔でエリスに尋ねる。
瞬が心配しているのが、“地上世界の滅亡”ではなく“自称 運命の女神の脳の障害”であることが わかるので、氷河は、瞬に そんな心配をさせる得体の知れない女が ますます癇に障った。
瞬に心配してもらうという光栄に浴しながら、エリスは感謝の色も見せない。
それどころか彼女は 瞬の気遣いを無視して、二人に偉そうに指図してきた。

「争いの女神が絵梨衣に接触するのは今から半年後で、狂ってしまった運命を修復するための時間は まだある。私は何としても、狂ってしまった この運命を修復するからね。また来るよ。それまでに、おまえたち二人は 自分が何を為すべきなのかを よく考えておくことだ。私としては、氷河、おまえが瞬を捨てるのでも、瞬、おまえが氷河から見を引くのでも、どっちでも構わないよ。どっちでも結果は同じことだから」
「貴様、黙って聞いていれば……!」
詰まらない妄想話なら我慢して聞いてやらないでもないが、言うに事欠いて、『瞬を捨てろ』とは何事か。『氷河から身を引け』とは何事なのか。
さすがに堪忍袋の緒が切れて、氷河は自称女神の胸ぐらを掴みあげ、彼女を黙らせようとしたのである。
が、残念ながら、氷河はそうすることができなかった。

ほとんど反射的本能的に氷河が手をのばした先――そこにあったエリスの姿が、まるで映写機の電源が切れてしまった映画館のスクリーン映像のように忽然と消えてしまったせいで。
それは一瞬の出来事だった。
エリスは 本当に一瞬で消えてしまった。
その瞬間を目の当たりにして、運命の女神だの地上世界の滅亡だのというエリスの話を それまで全く本気にしていなかった氷河と瞬は、エリスと名乗った少女が尋常の人間でないことだけは認めないわけにはいかなくなってしまったのである。





【next】