王子と野草






その人は、グラード学園高校の生徒たち(主に女子生徒たち)から、“王子様”と呼ばれている人だった。
そう呼ばれるに ふさわしい端正な面立ちと、どこか高校生らしからぬ 超然とした態度。
口数が少なく、あまり親しみやすいとはいえない雰囲気も、気位の高い王子様らしいと言えば言えないこともない。

“王子”という呼称が 安売りされている きらいのある現代日本で、それは もしかしたら ごくありふれた、極めて ありがちなことなのかもしれない。
ちょっとした一芸に秀で、ある程度 整った顔立ちに恵まれていれば、マスメディアによって すぐに そのジャンルの王子に祭り上げられる現代の日本。
だが、彼は、世に氾濫している他の王子たちとは、少々 事情が違っていた。
彼が王子様と呼ばれている理由は、彼の王子様然とした外見や雰囲気だけに起因するものではなかったのである。

日本はおろか世界中に数十万の会員を抱える 華道流生派。
彼は、その現家元の ただ一人の実子なのだ。
もし彼が父親の跡を継ぎ、流生派家元となれば、彼は数十万の会員を――派生流派の会員も含めれば百万人を超える会員の頂点に君臨する王となる。
すなわち 彼は、欧州や中米の へたな小国の君主以上の臣民と権力と財力を その手に握る帝王となるかもしれない人物だったのだ。
人も羨む地位、権威、権力、名誉、財力を 己が手に握る一大流派の長。
あわよくば、その家元夫人に――というシンデレラストーリーを夢見る少女たちや シンデレラストーリーを夢見ることさえ叶わない少女たちが、憧憬の念を込めて、彼を“王子様”と呼ぶのは ごく自然な成り行きだったろう。

そんな人が、校舎の裏庭の片隅に立つ泰山木(タイザンボク)の木に登っているのを見てしまったのだから、瞬が驚くのも無理のないこと。
瞬が その木の下に行ったのは、だが、木の上にある人影を認め、その正体を見極めようとしてのことではなかった。
その木の下に 藤袴(フジバカマ)に似た野草が生えていることに気付き、それが本当に藤袴なのかどうかを確かめようとして、瞬は その場に足を向けたのである。
午後の授業も終わり、園芸部が管理しているプランターの様子を見に行く途中。
太陽は まだ高いところにあったのだが、校舎の裏の狭い庭に 他の生徒の姿は一つもない。
瞬が目を留めた その野草は、残念ながら 絶滅危惧種の藤袴の本種ではなく雑種だったのだが、気の早いものが ほのかに紫色を帯びた蕾をつけていて、雑種とはいえ 秋の七草の一つである藤袴が今から蕾をつけてしまって秋までもつのだろうかと、瞬を心配させてくれたのだった。

「これから本格的な夏が来るのに、大丈夫?」
周囲に人影はない。
野草に話しかけていっても、奇矯な人間と思われることはないだろうと考えて――もとい、その時 瞬は そんなことを“考えて”さえいなかった――瞬は、小さな蕾の集まりに尋ねていったのである。
答えは、瞬の頭の上から返ってきた。
風は全くないのに、泰山木の枝が揺れる音がする。
「えっ」
不思議に思った瞬が 上を見上げると、横に張り出した泰山木の枝の上に人がいた。
「なにっ」
瞬の声で、木に登っていた人も 自分の下に人がいることに気付いたらしい。
滅多に人の来ない校舎の裏庭、しかも端の端、隅の隅。
瞬も油断していたが、木の上の人も油断していたに違いない。

樹上の人が学園の王子様だという事実を 瞬に認知させたのは、泰山木の上と下とで一瞬 交わった視線。
そして、泰山木の花の白と 見事な対照を為す黒い髪。
3メートル以上離れたところにいるというのに、瞬は、学園の王子様の視線の強さを はっきりと感じ取ることができたのである。
木の上の王子は、瞬の存在に気付いて少々慌てたらしい。
大きく枝が軋む音がしたかと思うと、次の瞬間、瞬の目の前、藤袴の雑種の上に、何かが落ちてきた。

その落下物を、瞬は最初、ふさふさした体毛を持つ小動物――長毛種の黒い子猫か、怪我をした黒いカラスかクロツグミ――と思ったのである。
体長は20センチほど――もっと長いかもしれない。
色は漆黒。
全く動かないところを見ると、死んでいるか、動けないほど弱っているか、あるいは 動物ではないもの。
それは、瞬が これまでに一度も見たことのないものだった。
恐る恐る指先で突つき、手に取り、それを10秒ほど観察し、更に20秒ほど考え込んでから、瞬は、それが動物ではなく、人間の身体の一部を模した人工物だということに気付いたのである。
それは、すなわち ヘアウィッグ。いわゆる カツラというものだった。






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