「えええええっ !? 」 聞きようによっては悲鳴と とられかねない驚きの声を、瞬は裏庭に響かせてしまったのである。 その声の余韻が消えぬまに、今度は重みのある何か――人間の本体――が、瞬の目の前に飛び下りてくる。 瞬は恐くて、その人の顔を見ることができなかった。 不自然なほど深く顔を伏せていると、当然のことながら、自分が手にしている拾い物を凝視することになる。 なぜ これを猫やカラスと見間違えたのか。 つややかな黒髪のカツラ。 俗にカラスの濡れ羽色と言うが、それは間近で見ると、むしろ黒馬の尻尾に似ていた。 拾ったものをどうすればいいのか迷っている瞬の前に、ぬっと 手が突き出される。 瞬は、震える手で、その手の上に拾ったものを載せた。 大きく骨太だが、花を扱う人に ふさわしい、手入れの行き届いた綺麗な形の指と手が、それを受け取る。 俯いたままの瞬に、彼は、不機嫌なことが一目瞭然(というより、一聴瞭然)の声で問うてきた。 「クラスと名前」 「い……1年Aクラスです。城戸瞬」 「俺の名は知っているな」 「はい。2年Aクラスの氷河さん」 「で?」 『で?』とは、どういう意味なのか。 まさか彼が『どうして こんなものが ここにあるんですか』などという質問を求めているのだとは思えない。 混乱する頭で、彼が何を求めているのかを必死に考え――そして 瞬は何とか やっと、 「誰にも言いません」 という答えに辿り着いたのだった。 言えるわけがない。 学園の王子様、未来の帝王が、カツラ愛用者だったなどという驚天動地の事実を。 まだ彼の耳がロバの耳だった方が はるかにましだったと、瞬は9分9厘 本気で思った。 「そうしてもらえると助かる」 瞬の答えは、王子の意に沿うものだったらしい。 だが、瞬は、それで安堵してしまうことはできなかった。 彼が全身に まとっている緊張感、嫌でも感じ取れてしまう張り詰めた空気が、瞬は恐くて たまらなかった。 求めていた通りの答えを手に入れたはずなのに、王子は一向に瞬の前から立ち去ろうとしない。 彼は 他にまだ 欲しいものがあるのだろうか。 それとも、とんでもない秘密を握られた相手に 何かしようとしているのか――何か すべきことがあると考えているのか。 自分は彼に 何か言うべきなのか、言わないでいた方がいいのか。 迷った挙句、二人の間にある沈黙に耐えられなくなって、結局 瞬は言葉を発した。 「ど……どうして、木の上なんかに――」 「俺が 馬鹿か煙だからだろう」 ぶっきらぼうで、抑揚のない低い声。 彼は やはり怒っている。 尋常ではない怒りに支配されている。 瞬は、飢えた狼の前で 恐怖のあまり身動きができなくなった小さなウサギのように身体を小さく丸め、びくびくと 全身を小刻みに震わせた。 その震えが、いつまでも止まらない。 「ここは笑うところだ」 そんな瞬の上に、更に不機嫌そうな王子の声。 「す……すみません」 無理を言わないでほしい――と、瞬は胸中で思ったのである。 1学年分しか歳の違わない高校生同士。 しかも相手は(多分)武器は持っていない。 その上、彼の秘密を握ったのは自分の方。 だというのに、なぜ自分は これほど彼に怯えているのか。 『怯える必要はない』 理性は そう考えるのに、感情と身体が理性の判断に従おうとしないのだ。 彼の秘密を知ってしまったがゆえに なお一層、瞬は 彼が恐かった。 さすがに これは怯えすぎだろうと思ったのは――思ってくれたのは、瞬自身ではなく王子の方だった(らしい)。 「泰山木の花や枝葉が花材になるかと思って、確かめていたんだ」 彼は、ぶっきらぼうな声音は そのままに、だが、もしかしたら怯えている瞬のために、彼の事情を説明してくれた。 上を見て確かめることは、(恐くて)できなかったが、確かに今は、泰山木が白い大輪の花をつける季節である。 「そ……そうだったんですか」 彼の説明を受けて、瞬は、俯いたまま頷くという器用なことをした。 そういえば、この人は華道の大家の次期家元候補。 植物に興味があっても 不思議でも何でもないのだということを、今更ながらに思い出す。 もちろん、普通の華道家は木に登ったりはしないだろうが、そんな普通の人間ごときが巨大な流派の家元になどなれるはずがない。 彼は特別な人間なのだ。 と、そんなことを考える。 瞬の視線の先にあるものは、雑種の藤袴。 王子様と庶民とでは、視線が向く先さえ違うのだと、瞬は 少し切なく思ったのである。 同じ人間同士で、こんなに近くにいるというのに――と。 「いつまで顔を伏せているんだ。もう顔を上げていいぞ」 高貴で特別な王子様が 下々の者にかける お声。 下々の者は 光栄と思わなければならないのだろうが――そして、その言葉に従わなければならないのだろうが、切なくて、畏れ多くて、恐くて、堂々と(?)顔を上げる勇気を持てない。 瞬は、一瞬間だけ、ちらりと王子の顔を窺い見た。 カツラのセットは終わったらしい。 黒髪の学園の王子が、下目使いに瞬を睨んでいた。 その威圧感たるや、同じ高校生同士と思うことが不敬行為になるのではないかと感じられるほど。 瞬は、高い身分の王子であるにもかかわらず、彼に取り巻きと呼ばれる者たちがいないのは当然のことのような気がしたのである。 彼は とにかく恐いのだ。 第一印象が“恐い”。 彼は、何よりもまず、近寄り難さで できている人間だった。 雲の上の人とまでは思わないが、木の上の人ではあった王子が、ふいに 険しい顔を僅かに歪める――否、もしかしたら、彼は 歪めたのではなく、緩めたのかもしれなかった。 そして、高貴な王子様は、下々の者と変わらない質問を瞬に投げかけてきた。 「おまえは男か、女か」 瞬が ちらりと彼の顔を窺い見た一瞬で、瞬の顔が 男子なのか女子なのかの判別が難しいものだということを確認できたというのなら、彼は かなり優れた動体視力の持ち主である。 だが、瞬は、彼の思いがけない能力に感心してみせることはできなかった――しなかった。 それは、有言無言を問わず、瞬が問われ慣れている質問。 これまで 飽きるほど浴びせかけられてきた、全く嬉しくない質問だったのだ。 「男ですっ!」 唇を引き結んで、顔を上げる。 遺憾の念を示すため、せめて彼を睨むことくらいはしたいと思ったのだが、瞬の睥睨は1秒と もたなかった。 カツラ装着を終えて見慣れた姿に戻った王子(とはいえ、これまで瞬は 遠く離れたところからしか彼を見たことはなかったのだが)が、瞬の顔を覗き込むように見おろしている。 初めて至近距離から見る王子様の面差しは、彼の言動が かもし出す迫力とはまた別の迫力を たたえていた。 見事に整い 尋常でなく美しいのに、この人は『男か女か』などという質問を 人から投げかけられたことはないのだろう。 そう問われる者の屈辱もわからないから、彼は平気で そんなことを訊いてくるのだ。 もちろん体格の問題もあるのだろうが――彼の顔は 自分の顔とどこがどう違うのだろうと疑い、瞬は つい まじまじと王子の顔を凝視してしまったのである。 その結果、端正で典麗なのに彼が女性的に見えないのは、彼の顔を描いている頬や鼻筋の線に 直線が混じっているからなのだということに、瞬は気付いた。 すべてが曲線でできている自分の顔とは、そこが違う。 そして、ほぼ無表情であるにもかかわらず、彼の整いすぎている顔立ちが無機質に感じられないのは、その瞳の深さゆえ。 あまり見詰めすぎると無礼討ちになるかもしれないと心配する気持ちもあるのだが、瞬は彼の上から 視線を逸らすことができなかった。 黒い瞳。 多くの思惟や感情を 深いところに沈めているような彼の瞳の色は、単純な黒ではなかった。 彼の瞳は、黒いのに青く光って見えるツバメの翼のようだった。 ずっと見詰めていたいのに、長く見詰めていると、頭が くらくらしてくる。 本当に倒れてしまいそうになった瞬は 慌てて 彼の瞳から視線を逸らし、自分の胸を押さえながら、長い吐息を洩らした。 ほぼ同時に、氷河もまた 短い溜め息を洩らす。 そして、彼は、初めて何らかの(それが何なのかは、瞬には わからなかったが)感情を伴った声で、 「とんだヤマトナデシコだ」 と、低く呟いた。 「え?」 それは どういう意味なのかと問おうとした瞬の前で、氷河が踵を返す。 瞬が 王子に その発言の意図を問う前に、彼は、瞬を一人 その場に残して、すたすたと 校舎に向かって歩き出していた。 |