それから5年の月日が 平和に過ぎていった。 魔女狩りの嵐は 相変わらず欧州を席捲していたが、瞬と氷河の暮らす村にまでは及ぶことはなかった。 新教と旧教の争いも続いていたが、それも、欧州の片隅の村の住民には、遠い世界の出来事でしかない。 戦乱も天災もない平和な村で、瞬は15、氷河は17になった。 「氷河!」 「瞬」 東の山に入る道と南の山に入る道、川に向かう道と、村落に続く道でできている十字路。 そこで昼前に別れ、夕刻 合流するのが、氷河と瞬の日課になっていた。 氷河は3人の男の子を従え、瞬は5人の女の子を連れている。 「今日の収穫は?」 氷河が瞬に尋ねると、瞬が笑顔で答えるのも、ほぼ二人の日課になっていた。 「たくさん。野イチゴにスグリにグミ、山ブドウ、アケビも もう食べられるようになってた」 「瞬ちゃん、野イチゴを見付ける天才なの。クサイチゴ、モミジイチゴ、クマイチゴ、もうたくさん」 「瞬ちゃんが『あそこ』って言うと、必ず イチゴやスグリの木が そこにあるの。すごいよねー」 藪の陰に隠れている野イチゴを容易に見付けることができる。 それは この村では十分に尊敬に値することで、村の女の子たちは皆、心から瞬を尊敬していた。 なにしろ 瞬がいないと、食卓にイチゴが上がらないのだ。 ジャムを作れるほどのイチゴを見付けられなければ、特に冬場の食卓は ひどく寂しいものになってしまう。 それは 少女たちには重大な問題で、瞬の技と才能は 極めて有益かつ貴重なものだった。 「氷河の方は?」 「こっちは――」 「ものすごく でっかい野ブタに出くわしたのにさー。子供を連れてるから捕まえちゃ 駄目だって、氷河が言うんだ。あの子ブタなら、俺でも捕まえられたかもしれないのに」 氷河が答える前に、氷河に従っていた子供の一人が そう言って、不満そうに口をとがらせる。 「どうせ大きくなったら、捕まえるのに……」 (おそらく)1年後には『捕まえてもいい』と言い、実際に捕まえるに違いないのに、今は駄目だと、氷河は言う。 それが彼の不満の理由らしかった。 瞬が、とがらせた唇を元に戻さない子供の頭を撫で、なだめる。 「そうだね。でも、子供を取られたら、お母さんは とっても悲しむよ。子供を探して山を下りてきて、村の畑を荒らしたりするかもしれないし」 「ん……」 子を奪われた母ブタの気持ちを察することは できるらしい。 瞬に そう言われると、その子は それ以上 不満を言い募ることをやめた。 「うちのおばあちゃんが、この村が嵐に襲われたり、旱魃に苦しめられたりしないのは、そういう無慈悲な殺生をしないから、神様が村を守ってくれてるんだって言ってたわよ。氷河の言うことを聞きなさいよ」 瞬に従っていた少女たちの中で最も年かさの女の子が、いかにも年長者らしい口振りで年下の少年に命じる。 子ブタに未練を見せていた男の子は、自分と同じ子供に そう言われたことが癪だったらしく、少々 反抗的かつ 投げ遣りな態度で、 「はーい」 と、彼女に応じた。 子供たちの間には、それぞれの性別と年齢によって 自然に定まった序列があるのだが、彼は、その序列において 自分が女の子の下位にいることが不本意らしい。 こればかりは大人が口出しすべきことではないし、瞬も どちらかといえば年長の少女の方――というより、少女の祖母の意見の方に賛成だったので、それ以上 言葉を重ねることは避けた。 代わりに、 「じゃあ、今日は手ぶらなの」 と、山に向かった一団に尋ねる。 途端に、その男の子は頭を切り替えてみせた。 「代わりに谷に下りてさ、川で魚を獲る仕掛けの作り方を教えてもらったんだ。みんなで作ったんだぜ。そしたら、面白いくらい魚が仕掛けの中に飛び込んできてさあ」 「アユにイワナにウグイ。大漁だぜ!」 今日の彼等の獲物籠が濡れているのは、どうやら そういうわけだったらしい。 氷河に従っていた3人が 揃って差し出した籠の中には、数種類の河魚が 微妙に色合いの異なる銀色の体を輝かせていた。 「わあ、すごい!」 「へへへへへ〜」 瞬が感心してみせると、男子3人組は 揃って得意げな顔になった。 「かーちゃん、驚くぞー。今日の晩飯は、魚の串焼きだぜ!」 「私は冬に備えて、ジャム作りを覚えるの」 子供たちは全員 今日の収穫に満足しているらしく、その表情は皆 明るく輝いていた。 「うん。じゃあ、気をつけて帰って」 「ばいばいー」 「また。明日ねー」 「明日は、フキとワサビの見分け方を教えてあげるよ」 「わー、それ、すごく大事ー!」 村に入ったところで、子供たちが 今日の収穫物を抱えて、それぞれの家に向かう。 村の大人たちは 完全に瞬への警戒を解いたとは言い難いところがあったが、子供たちは まるで屈託がなかった。 瞬がもっと 幼かった頃には、『子供が一人で生きていられるのは奇妙だ』と大人たちは言っていたが、瞬なら 悪魔の力など借りなくても 野山で いくらでも食べ物を見付けることができる。 それは最初から怪しむようなことではなかったのだと、子供たちに手を振っている瞬を見ながら、氷河は思っていたのである。 今では、少なくとも、その件で瞬を疑っている者は 村の中にはいないはずだった。 幾度も『ばいばい』を繰り返していた子供たちの声が聞こえなくなってから、二人 並んで、二人の家路を辿り始める。 氷河は 去年、それまで彼等母子が暮らしていた古い家を増改築した。 その際、瞬のための部屋と椅子を作ったと瞬に告げ、今では その家に 母と瞬と三人で暮らすようになっていた。 「夕焼け。明日も晴れるね」 村の西に向かう二人の視界には、紺色に染まった山々を くっきりと浮かびあがらせるオレンジ色の夕焼けが広がっていた。 昨日も一昨日も同じような色の空を見詰めながら、瞬は同じことを言った。 同じことを言えることが この上ない幸福であるかのような目をして。 昨日の瞬と 今日の瞬とで違っていたのは、昨日と同じ夕焼けを見詰めていた瞬が、急に その瞳から 一粒 涙を零したこと。 「どうした。また 誰かに 何か言われたのか」 慌てて 氷河が尋ねると、瞬は 右の手で涙を拭いながら 首を左右に振り、氷河に笑顔を向けてきた。 「そうじゃないの。ただ、夕焼けが綺麗で……。氷河と氷河のマーマに会えてよかったなあって、思ったの。もし会えてなかったら、僕は今も一人ぽっちで、こんな幸せを知らずにいた」 「なんで夕焼けで そんなことを思い出すんだ。全然 脈絡がないじゃないか。泣き虫」 「幸せで泣くのはいいの」 「おまえは今、幸せなのか」 「うん」 「……そうか」 瞬の涙に慌てた直後だっただけに、瞬の その言葉が嬉しい。 瞬に気付かれぬように、氷河は安堵の息を洩らした。 『おまえに 幸せにしてもらっているのは、俺の方だ』と瞬に告げたら、その言葉の真の意味を 瞬はわかってくれるだろうかと考えてみる。 考えて――だが、それは明日にしようと、氷河は思い直した。 今 二人の前にあるのは、幸せな日が明日も続くと言っているような夕焼け。 今、『俺は おまえを特別に――おまえが考える“特別”とは別の意味で特別に――おまえが好きなんだ』と言ってしまったら、明日が今日と違う明日になってしまうような気がする。 瞬が見詰めている夕焼けを 共に見詰めているうちに、氷河には そう思えてきたのである。 その時には もう、明日が今日と違う明日になる出来事が起きてしまっていたことも知らずに。 |