「ただいま! マーマ、今日も夕焼けが綺麗。明日も晴れそうだよ!」
昨日も似たようなことを言い、瞬はナターシャの待つ三人の家の扉を開けた。
昨日は、家に入って すぐ右手にある台所から かぐにナターシャが顔を出し、
『おかえりなさい。今日の収穫は なあに』
と、二人に尋ねてきた。
一昨日も一昨々日も、そんなふうに ナターシャは二人を出迎えてくれた。
二人の収穫物によっては、その日の夕食の献立を変えなければならなくなるので、その やり取りが この家での約束事になっていたのである。

そのナターシャの声が、今日はない。
ナターシャ自身も姿を現わさない。
「あれ? 庭に出てるのかな……?」
「洗濯物は 取り込んであったぞ」
そんなことを言いながら、今日の収穫物を持って台所に入っていった二人は、そこに倒れているナターシャの姿を見付け、真っ青になった。
「マーマ!」
手にしていた籠をテーブルの上に放り投げ、瞬がナターシャの側に駆け寄る。
彼女の身体を抱き起こすために その肩に手をまわしただけで――洋服越しに触れただけで――ナターシャの身体が高熱を帯びていることが、瞬にはわかった。

「すごい熱だよ、氷河……!」
「熱? 午前中は元気だっただろう。ここ何年か、ずっと調子がよかったのに――」
瞬から母の身体を受け取り、抱き上げ、氷河が彼の母を彼女の寝室に運ぶ。
「冷やさなきゃ……。僕、井戸から 水を汲んでくる!」
瞬は、台所にあった桶を持って、庭に飛び出た。
朝のうちは、ナターシャは全く普段と違った様子はなかった。
昼近く、瞬と氷河が家を出た時も、いつもと変わらぬ笑顔で二人を送り出してくれた。
では、ナターシャは その後 急に発熱したのか。
それとも、朝の時点で既に彼女は無理をしていたのか――。
井戸の冷たい水に浸した手巾を、ナターシャの額や首筋は すぐに生温かいものに変えてしまう。
ナターシャの熱は、井戸の水ごときで下げることができるようなものではなかった。

「これでは、焼け石に水だ」
異様に呼吸が荒く、ナターシャの容体は、むしろ 意識を失っていられるのが不思議に思えるほどだった。
この村には医者はいない。
村で 病の対処法に最も詳しいのは、他の誰でもない瞬だった。
「何よりまず、身体にこもっている熱を 外に逃がさないと、病気以前に体力がもたない。ハマゴウの実かスイカズラの葉の干したものがあれば、解熱剤になるんだけど……」
ここ数年、この家の住人は病を得たことが一度もなく、瞬は自分が作った薬草の類は すべて、村人たちに分けてしまっていた。
「薬草を分けてあげた家のどこかに残ってるかもしれない。僕、ちょっと みんなの家をまわってくるよ」
そう言って家を飛び出した瞬は、だが、まもなく空しく氷河とナターシャの許に戻ってくることになった。

そうして 一晩、氷河と瞬は寝ずにナターシャの枕元についていたのである。
しかし、夜が明けても、ナターシャの熱は下がらなかった。
村の子供たちが心配して 様子を見にきてくれたが、彼等に何ができるわけでもない。
ナターシャの高熱は 丸一日が過ぎても下がる気配すら見せなかった。
おそらく 家の外の空には、昨日と同じオレンジ色の夕焼けが広がっている。
だが、昨日は穏やかで幸福だった氷河と瞬の心は、今日は まるで違うものになってしまっていた。

「冬なら、雪や氷で氷嚢を作れるのに」
泣きそうな顔で――否、瞬は既に半分 泣いていた――そう呟き、瞬が 井戸の水を汲みにいくために桶を手にする。
「雪か氷……」
一向に目を開けてくれない母を 厳しい目をして見詰めていた氷河が、瞬の呟きを復唱する。
それは、だが、この季節に手に入るものではない。
瞬は ついに瞳から 溢れ出してしまった涙を拭い、部屋を出た。
無駄と わかっていても、ナターシャの熱を下げるための努力をやめるわけにはいかないのだ。
諦めてなるものかと 自分に言いきかせ、励ましながら、井戸の水を汲んで ナターシャの許に戻ってきた瞬は、そこで、そこにあるはずのないものを見ることになったのである。

つい 先程までは この部屋になかったもの――冬にしか手に入らない氷。
それが なぜか氷河の手の上にあった――手の平に載っているのではなく、宙に浮かんでいた。
しかも それは、氷河の視線を受けて 少しずつ大きさを増している。
「氷河……」
抑揚のない声で 瞬に名を呼ばれた氷河は、はっと 我にかえったように その顔を上げた。
驚きに瞳を見開いている瞬を見詰め、彼が その視線を脇に逸らす。
「この力があるせいで、俺とマーマは故郷の村にいられなくなり 逃げ出すことになったんだ。魔女の疑いをかけられて」

苦しみに呻くような氷河の声。
彼は唇を噛みしめて、その顔を俯かせた。
「だが、俺は魔女なんかじゃない。悪魔なんて見たこともない」
「氷河……それで……」
幸福な出会いの時から5年。
今になって、瞬は知ることになったのである。
氷河と氷河の母が、魔女の疑いをかけられていた瞬に 恐れることなく近付き、親切にしてくれた訳を。
たとえ尋常の人間には持ち得ない不思議な力を持っていたとしても、その人間が魔女とは限らない。
その事実――もちろん事実である――を、氷河と氷河の母は知っていたのだ。

「氷河、その氷、ちょうだい。氷嚢と氷枕を作るから。氷、もっと作れるの?」
「あ……ああ」
「じゃあ、どんどん作って。あまり大きな塊にしないで、小さな氷をたくさん」
「瞬……」
『おまえは こんなことのできる男が恐くはないのか』と尋ねることを、氷河は恐れている。
瞬には、それがわかった。
『恐くなんかない』と答える代わりに、瞬は 氷河の手の平の上に浮いている氷を その手に取ってみせたのである。
「わっ」

それが氷だというだけでも奇異なことなのに、氷河の作り出す氷は 通常の氷より 更に冷たい――熱いと感じるほどに冷たかった。
しかも、それは瞬の手に触れても融ける気配すら見せない。
そんな氷があるのなのかと思いはしたが、今は そんなことを不思議がってなどいられない。
「今はマーマの回復だけを考えよう。今は、他のことは考えちゃ駄目。きっと……きっと、大丈夫だから」
励ますように そう言って、瞬は、氷河の心を安んじさせるために微笑を作った。
瞬の その言葉と微笑が功を奏したのか、あるいは氷河は 瞬の言葉に従って 母の回復以外のことを考えるのをやめたのか――ともかく彼は、次の氷を その手の上に生むことを始めたのだった。






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